くるり 第三話

 

生見の主人公は、24才で自分をさがしている。痛い人間の領域にさしかかっている年ごろであっても、記憶喪失なので許される。実物の生見は22才でアメリカの首都をフランスと答えるような痛い人間だが、台詞をおぼえられるし他の人格になれる能力がある。つまり演技ができる。頭がよくて知識のある人間で、気取りがあって擬装ができない演者はよく見かける。

 

生見は会社を辞めて指輪製作の工房に弟子入りし、とても不器用な自分を発見することになる。鈍感な人間でもあって、男たちの視線の意味になかなか気づかない。もとは無難な服を着て無難な態度で社会を乗り切っていたらしいが、すでにその記憶はない。ひとつずつ自分を再構築しているところで、無垢な存在だということでもある。この人物像に、生見はよくはまっている。

 

男たちは表情がことごとく意味ありげで、面倒な人間たちだ。ミステリー仕立てのせいもあるが、脚本家が女性だからかもしれない。小芝風花波よ聞いてくれでは女たちがみな曲がりくねって面倒な性格で、原作者は男性だった。これを思うと、男と女は面倒な関係にあるといえる。

 

恋人の物らしい指輪が、生見の身元を明らかにする手がかりになっている。登場した男の指にみなあてはまるので、よけいに謎は深まる。このドラマは、逆シンデレラ物語でもある。

花咲舞 第二話

 

安定して面白いが、今回は敵が小悪なので相棒か船越ドラマのようだった。毎回完結なら、ラストで犯人をビルの崖っぷちに追いつめて自白させてもいいくらいだ。

 

 

 

このコンビはいい。今田は心の強さとあどけなさが両立している。

 

 

下積みが長いから、今田は初期はいろいろなのに出ている。

 

 

伝説の映画、帰ってきたバスジャック (2017) の乗客。

 

 

 

デメキン (2017) ではヤンキーの彼女。

 

 

 

民衆の敵 (2017) で高橋一生とつきあうデリ女。

 

 

 

短編映画カランコエの花 (2018)

 

 

 

短編映画 Junk (2019)

くるり 第二話

 

第二話では胸焼けしていた親切仕様のナレーションも消えて、ふつうのドラマになっていた。そうなるとこれは24才女性の自分さがしの話だとわかった。記憶喪失設定をのぞけば何ということもない語り口だが、生見の演技で感じよく観ることができる。ともさかりえが出てきて、ひさしぶりだがあいかわらず口が曲がって元気そうだ。男三人も役柄にはまっている。

生見のとなりにいるのは、第一話の正社より有能な派遣社員だ。この人も説得力があると思っていたら、恋せぬふたりに出ていた菊池亜希子で第二話でも思わぬかたちで再登場した。ラストはまた不穏な終わりかたとなり、継続鑑賞ときめた。ただこの話の規模だと、展開が止まって中盤で失速するか。

 

366日はゴードンが寝たきりのようで、リタイアすることにした。

花咲舞がおもしろい

 

 

楽しみにしていたかいあって、期待を裏切らない出来だ。悪女の田中麻里鈴はゼロスタートの出世双六だったが、こちらは最初から猪突猛進で銀行内を水戸黄門のように暴れ回っている。前作は観ていないが、なにしろ今田美桜の眼力だから誰も文句をいえない。山本耕史のスマートな助っ人も適材適所だ。

 

 

 

悪女では編み物を覚えたが、こっちでは札さばきも練習したのだろう。

 

 

 

雨に濡れても食い下がる。

 

 

 

小突かれてもひるまない。痛快だ。

くるり 366日

 

冬ドラマは大奥、Eye Love You は脱落で、マエストロは最終回の展開に呆れてリタイアしてひとつも完走できなかった。日本の脚本家はみな頭がおかしくなったのか、こちらがおかしいのかよくわからない。

 

それでもこりずに春ドラマのくるりを観てみた。

主演の生見がセクシー田中さんでよい演技をしていたからだが、初回はおもしろかった。予告にあるように生見が記憶喪失になって、自分自身と推定恋人と自分を追っていた謎の人物をさがす話だ。画像はメロンだが、生見は動いていると生き生きして魅力的だ。共演の男たちもみな怪しいので、話がはずむ。

ただすべての心の声と行動をナレーションが語る安心設計の演出で、副音声が消せないようなうっとうしい進行になっている。初回限定なのかずっとつづくかで、二回目からの視聴は決まるだろう。

 

 

 

366日もゴードンとアリスの共演なので期待していた。繊細なゴリラときれいなゴリラの化学変化が見たかった。高校時代の片思いの十年後の話だ。

しかしこちらは脚本がとても薄くて、知らない人のアルバムを見せられているように退屈だった。これは事故か記憶喪失でもならないと話がつづかないのではと思ったら、ラストの相愛になったところでゴードンが転落して頭を強打した。

闘病や余命のはなしなら打ち切るが、ゴードンが別人格になって周囲で謎の連続殺人が起きるようだとおもしろいかもしれない。

 

 

土曜から今田の花咲舞がはじまるので、これは期待できる。

 

 

荷風マイナス・ゼロ (80)

1809年 亜欧堂田善画 浅草

昭和19年(1944)

 

4月1日、阿部ゆきから鶏卵を贈られる。郵便切手5銭のところ7銭、葉書3銭となる。

4月2日、今年の春は風寒く花もなお開かず鶯も庭に来てさえずったことが一度もない。去年までは三月なかばごろから四月に至ると鶯は終日庭に来て啼きあるときは早朝人のねむりをさますこともあったのである。鳥類も軍人の横暴を恐れるようになったのであろう。

4月3日、オペラ館館主田代旋太郎に紀念として旧著面影を贈ろうとして郵便局に行ったが休みだった。

4月4日、郵便局に四月十日まで小包郵便取り扱い中止の掲示があった。午後大野村上、二人とも外務省の人、来話。仏領インドシナに行くという。船は危険なので飛行機で行くと語った。

4月5日、後庭に野菜の種をまく。

4月6日、午後浅草公園を歩く。オペラ館戸口には政府の御命令により三月三十一日限り謹んで休業仕り候の貼り紙を出していた。萬盛座はそのうち公園内で代地を賜るまで一時休業というような掲示をしている。昭和座三友館はただ戸を閉ざしたのみ。観音堂の境内をすぎると団十郎像は今もなおあった。言問橋の大衆食堂には人々が行列をして五時過ぎの開店を待つ。

4月10日、食料品の欠乏が日を追ってひどくなるにつれ軍人に対する反感がようやく激しくなっていくようだ。市中いたるところ疎開空襲必至の張り札を見る。一昨年四月敵機襲来のあと市外へ転居するものを見れば卑怯といい非国民などと罵っていたのに十八年冬ごろから急に疎開の語をつくり出し民家離散取り払いを迫る。朝令暮改笑うべきである。また本年三月より芸者中止の命令があったのに一か月を出ずに警察署では芸妓が酒席に招かれるのを禁じ小待合で客の枕席にはべることを公然認可するにいたったという。事の是非はしばらくおいて論じないが政策の愚劣野卑であることはほとんど口にしがたい。軍人らの施政でこの類でないものはない。

4月11日、毎朝七八時ころ飛行機の音が春眠を妨げる。その音は鍋の底の焦げついたのをがりがりと引っ掻くようでいかにも機械が安物であることを思わせる。それはともかく毎朝東京の空を飛行して何をするのだろう。東京を防ぐにはその周囲数里の外に備えるところがなければならない。いたずらに騒音を市民の頭上に浴びせかけて得意満々とする軍人の愚劣はまた大いに笑うべきである。

・・銀座街頭の柳は花が開く前に早くも青くなった。電車は雑踏しない。街頭を行く人はだんだん稀になった。

食物闇値左のごとし

一 白米一升 金10円也

一 酢一合  金1円也

一 食パン一斤 金2円40銭也

一 鶏肉一羽 金25円也

一 鶏卵一個 金70銭也

一 砂糖一貫目 金120円也

一 するめ一枚 1円也

一 沢庵一本 5円也

一 醤油一升 金10円也

一 バタ一斤 金20円也

4月13日、NRF(新フランス評論)の古雑誌を読む。

4月15日、午後林小堀菅原の三氏が来て会う。五月中開催する予定の合奏会のことについてである。小堀氏からほうれん草をもらう。近ごろ八百屋に青物がない。仙薬を得たような思いがある。

4月16日、(芝増上寺に行く)廟の中門外に立ち並んだ唐金の燈籠はおおかた取り除かれて石の台のみを残している。今ごろはどこかの工場で鋳潰されているだろう。しかし廟の外に立った後藤象二郎銅像は依然としてつつがないのを見る。軍人政府の政策がつねに公平でないことは実にかくの如しである。徳川氏の霊廟は上野芝ともに維新のさい焼き払われるはずだったが英国公使パークスの忠告があったため灰燼になることをまぬがれたという事は欧州人の日本旅行記中にしばしば見るところである。そうであれば今日わたしが来て観ることができるのは結局英国人の恩恵にほかならない。わたしが前代の建築物を見て文化的芸術的感激を催すこともこれまた西洋趣味の致すところに過ぎない。東洋式豪傑らの知らないところである。江戸時代の遺跡が東京から湮滅する時期も遠くないことだろう。

4月17日、東武電車浅草から大師前の間は朝夕二時間は職工のほか良民の乗車を許さないという。また市中省線電車沿線の民家は六月から取り払いになるので突然立ち退きの命令が出たという。

4月21日、六区の興行街を過ぎるとき金龍館楽屋三階の窓から先生先生と呼ぶものがいる。仰ぎ見ると三月中オペラ館にいた踊り子三人である。入ってその部屋に行く。三人とも踊り子をやめ女優になったが芝居は陰気臭く台詞を暗記するのが面倒だが今月から浅草の劇場はどこも演劇ばかりとなりレビュウの踊りは今後も許可される見込みがないので仕方なく芝居の舞台に出ていると語った。日米戦争は一方にジャズ舞踊一方に江戸歌舞伎を撲滅するに至ったのである。金龍館横町から仲見世にいたる繁華な通りも店を閉ざすところが多くなった。飲食店中西森永支那料理屋一二軒はみな閉店した。

4月29日、終日NRFの古雑誌を読む。

4月30日、(赤坂税務署からの帰途)途中花屋の窓に西洋草花が多く並べてあるのを見て一鉢買って帰る。

 

5月2日、銀座を歩く。昨日の繁華は跡をもとどめずただ夏柳の風にそよぐのみ。

5月3日、町会配給所に今月は味噌も砂糖もないといって近所のかみさんたちが門外で大声に語り合っていた。今宵は月の光があるので東中野のアパートに菅原君を訪ねようと夕方に家を出た。途中で夜となった。東中野駅外に人力車があった。これに乗って行く。茹で小豆をご馳走になったあと隣室に住む山田某氏の夫人を訪ねる。若いパリの婦人で日本語が巧みである。この夫人の部屋にオルガンがあった。わたしが作詞した船の上、涙、口ずさみ三篇の節付きを聞く。山田夫人はサムソンとダリヤの一節を歌う。珈琲をご馳走になる。十一時まで歓談した。

5月6日、浅草から入谷を歩き蚊遣り粉を買う。紀州産除虫菊でつくった線香は今年も市中にはないという。五日より電車乗り換え切符を出さずに乗り換えるごとに10銭を払うことになる。

5月9日、薄暮江戸川端中之橋のほとりに住むピアニスト野辺地氏を訪ねる。林龍作氏がヴィオロンを携えてきて智子菅原二人の来るのを待ち冬の窓合奏の練習をする。十二日の夜ふたたび集まって練習をするはずである。

・・(神田川)河岸一帯の人家は来月中に取り払いになるという。六十六年前わたしが生まれた小石川の地もいよいよ時局の迫害をこうむるに至った。

5月12日、野辺地氏宅でふたたび冬の窓合奏練習をする。今宵はパリの婦人も菅原氏とともに来た。

5月15日、(日本橋で債券を現金に換える)浅草公園金龍館楽屋に入り三階の女優部屋で憩う。ニ三か月前戦地慰問演芸団に加わり南京から漢口までおもむいたという女優がいた。その地の状況を語った。漢口にはダンス場があって支那人男女の衣服が立派で日本から行った者などはきまりが悪くて踊れないほどである。揚子江の航路は重慶から飛んでくる飛行機のために危険きわまりない。南京はいつ暴動が起こるかも知れず枕を高くして寝る夜は少ない。物価は日本の10円が向こうの100円くらいである。珈琲店の珈琲は一杯12円である。その代わり珈琲も上等で砂糖もたくさん入れてある。慰問団の芸人は二か月間の給金が1500円で食料宿料は向こうもちだが現金は500円以上持っていくことは許されずそのため買いたいものも買ってくることができない。戦地の軍隊には日本の菓子羊羹饅頭缶詰の類があり余るほどある。饅頭などはまわりの皮を捨てて中の餡を少し食ってみるくらい。食物の浪費は驚くばかりである。陸上の旅行は馬またはトラックだけでとても不便である。うんぬん。

5月19日、ニ三日前警察署の役人らしいものがニ三人で早朝網をもってきて観音堂の鳩を数百羽捕らえリアカーに積んで持ち去った。この後もおりおり鳩狩りをしてあまり増えないようにするという。堂前で長年鳩にやる豆を売っていた老婆たちのなかには豆の闇相場が高騰し廃業するものもいるようになったという。日米戦争は本年に至って東京住民の追い払いとなり次に神社仏閣の鳩狩りとなる。この冬あたりには市民財産の没収となるであろう。

5月22日、午後浅草に行き観音堂の鳩を見ると話に聞いたようにその数は大いに減ったようである。豆を売る老婆の姿も見えず餌をまいてやる参詣人もいない。

5月27日、(近ごろ鼠がひどく荒れまわる。雀の子はいつも米粒を捨てるのを待っている。猫は姿を見ないようになった。)東亜共栄圏内に生息する鳥獣飢餓の惨状はまたあわれむべきである。燕よ。秋を待たずすみやかに帰れ。雁よ。秋来るとも今年は共栄圏内に来るなかれ。

5月30日、(天井を走り回っていた鼠が昨夜からひっそりしている)鼠群が突然家を去るのは天変地妖の来る予報だともいう。果たしてそうか。暴風も止む時が来れば止む。軍閥の威勢も衰えるときが来れば衰えるだろう。その時よ早く来い。家の鼠が去ったように。

 

6月1日、日本橋に出て白木屋で肌着など買おうとしたが女物が少しあるだけ。男物は一枚もない。

6月3日、(下痢して)玉蜀黍を混ぜた粗悪米のためであろう。鐘淵紡績会社鐘淵工業会社となり配当金が八分に減る。

6月9日、夜日暮里野辺地氏邸で演奏会。

6月10日、腹具合がよくならず疲労がひどい。読書執筆ともに興味がわかない。

6月12日、午後富豪篠崎氏三田一丁目邸宅の応接間を借り冬の窓演奏会を催す。この家の令嬢が洋琴家野辺地氏の門人だからである。聴衆十二三人みな菅原氏の知る人である。五時ごろ会終わる。菅原君とともに東中野のアパートに行き夕飯をご馳走になる。隣室のパリ婦人彫刻家某子金秉旭氏らと歓談する。この日演奏会席上で若いドイツ人某氏に紹介される。日本文学を研究しわたしの旧作すみだ川をドイツ語に翻訳したいと言った。(これまでもドイツ語出版の話はあったがドイツ嫌いで断っていた)

6月14日、浅草某生の来信に公園北寄りのところ元花屋敷のあたりはすでに取り払いになったという。

6月16日、米国空軍九州を襲う。

6月17日、夜菅原君およびその他の諸子と野辺地氏の家に会しショパンの曲を聴くつもりだったが警戒報があったため戸を閉ざし灯火を暗くしてただ雑談に夜をふかして帰る。

6月19日、昨夜よりまた警戒報が発せられる。

6月20日、旧オペラ館俳優某生の手紙に

四五日前玉の井を歩いてみました。賑本通りの桑原の横町でひさしぶりに流行歌をやっているものを見ました。暗くて顔はよくわかりませんが歌手は十七八くらいかと思う女。ヴァイオリンとバスマンドリンは男でした。ポツポツ雨の降って来るさびしい晩です。流行歌は公園はじめどこへ行ってももう聞かれないんです。突然この路地のなかで流行歌を聞いたその瞬間のなつかしい心持ち。私は泣きたいような心持になりました。いつになったら私達は舞台で歌を歌えるようになれるんでしょう。先生が舞台裏で女の子を相手に笑いながら私達の歌をきいて下すった時分の事が思い出されます。以下略

6月22日、税務署より十八年度所得金額通知書が来る。総所得金7220円也乙種所得240円也とあり。(乙種が文筆所得。配当利子が6980円ということか。この時期1円=1000円とすれば約700万円。)

6月26日、午後日本橋赤木屋に行き町会から押し売りの債券を売って現金に替えようとすると今月からそれが不可能になったといっていつも込みあう店頭に出入りする人もいない。金融停止の時期がいよいよ到来したもののようだ。100円紙幣通用禁止の時期も遠くないという風説もまんざら根もない流言ではないであろう。

6月29日、表通りの塀際に配給の炭俵が昨日から積み置かれているので夜明けの人通りがないころをうかがい盗み取ってのち眠りについた。

・・今年もはや半ばを過ぎようとしている。戦争はいつまで続くのだろうか。来るぞ来るぞという空襲もまだ来ない。国内人心の倦怠疲労は今まさにその極度に達したようだ。世人は勝敗に関せず戦争さえ終局を告げれば国民の生活はどうにか立ち直るように考えているようだがそれもその時になって見ねばわからぬことである。欧州第一次大戦後の日本人の生活が向上したのはこれを要するに極東における英米商工業の繁栄にもとづいたものだった。これは震災後東京市街復興の状況を回顧すれば自ら明らかであろう。しかし今日は世界の形勢がまったく一変した。欧州の天地に平和の回復する日が来ることがあっても極東の商工業がすぐに昨日の繁栄をもたらすか否か容易に断言できない。とにかく東京の繁華は昭和八九年をもって終局を告げたものと見るべきである。文芸の一方面について論ずれば四迷鴎外の出た時代は日本文化の最頂点に達した時でこれは再び帰り来ないものだろう。

荷風マイナス・ゼロ (79)

浅草オペラ館演目 (東京都立博物館)

 

昭和19年(1944)

 

1月1日、曇って暗く正月元日は秋の夕暮れのようだ。小鳥も鳴かず犬の声もせず門巷は寂寥として昼もまた夜のごとし。

・・このニ三年食物の事で忘れがたい人々の名を左に記す。

一 凌霜草廬主人(相磯)時々ハム鶏肉萩の餅ジャムなどをいただく。

一 兎屋怗寂子(谷口)いつも砂糖菓子炭をいただく。

一 西銀座おかざき 毎年盆暮れの贈物。

一 小堀杏奴 邸内の野菜を贈られる。

一 杵屋五叟 味噌醤油などおりおり足りなくなる時もらいに行くところ。

一 隣組渡部さん 毎日野菜の配給物をもってきてくれる人である。

一 熱海大洋ホテル主人(木戸)洋酒バター珈琲など進物数えがたし。

このほか遠隔の地から思いがけずに土地の名産を送ってくれる人が非常に多い。

1月2日、年賀状とともに時勢を痛論する手紙がひんぱんに来る。みな未見の士が寄せるものである。これを総括して大意を記録すれば左のごとし

現政府の方針は依然として一定せず何をもって国是とするのかはなはだ不明である。しかしこの度文学雑誌を一括してこの発行を禁止したことから推察すれば学術文芸を無用の長物とするようだ。文学を無用とするのは思想の転変を防止し文化の進歩を阻害するものである。現代の日本を欧州中世の暗黒時代にもどそうとするのに異ならない。このような愚挙暴挙がはたして成功するか否か。もし成功すれば国家の衰亡に帰着するだけである。このような愚挙を断行する国が単に武力のみで支那印度南洋の他民族を治めることができるだろうか。現政府の命脈は長くないだろう。うんぬん。

1月7日、午後オペラ館に行って見ると河合澄子が三番叟を踊っているところだった。元日から満員で毎日大入り袋1円50銭だと踊り子のはなしである。公園内外の喫茶店飲食店は大半閉店。天ぷら屋がところどころ店を開けている。群衆が寒風にさらされながら午後五時営業時間の来るのを待つさまは哀れである。この日は七草のためか行きも帰りも地下鉄が雑踏してほとんど乗れない。

1月8日、台所流しの水が凍って溶けない。炊事がひどく苦痛である。これみな軍人専制政治のなすところ。憎むべきなり。

1月10日、晴れてやや暖かいので物を買おうと午後銀座を歩く。新橋の青物屋でおりよくシャンピニオンを得た。亀屋でスッポン肉汁を買う時偶然旧南鍋町の汁粉屋梅林のおかみさんに逢う。・・今は廃業したという。銀座界隈は何業によらず閉店するものが日を追って多くなった。興亜共栄などという事はこのような荒廃のさまを言うものであろう。

1月15日、夜オペラ館に行く。踊り子の多くが去って七八人となった。

1月18日、日も暮れ近いころ電話がかかって十年前三番町で幾代という待合茶屋を出させたお歌が訪ねてきた。その後ふたたび芸妓になり柳橋に出ているといって夜も八時過ぎまで何やかや話は尽きなかった。お歌は中州の茶屋弥生のやっかいになっていた阿部定という女と心やすくなって今でも行き来するという。現在は谷中初音町のアパートで年下の男と同棲しているという。どこか足りないところのある女だという。お歌はわたしと別れたあともわたしの家に訪ね来たことは今日が初めてではない。三四年前赤坂氷川町あたりに知る人があって訪ねた帰りだと言って来たことがある。思い出せば昭和二年の秋だった。一円本全集で意外の金を得たことがあってその一部を割いて茶屋を出させてやったのである。お歌はいまだにその時のことを忘れないのだろう。その心のなかは知らないが老後戦乱の世に遭遇し旧廬に呻吟する時むかしの人が訪ねてくるのに逢うのは涙ぐまれるほど嬉しいものである。この次はいつまた相逢って語らうことができるだろうか。もし空襲が来たらたがいにその行方を知らないことになるだろう。そうでなくてもわたしは何時までここにこうして余命を貪ることが出来るのか。今日の会合が最後の会合になるかは知ることが出来ない。これを思う時の心のさびしさとはかなさ。これが人生の真の味であろう。 松過ぎて思はぬ人に逢ふ夜かな

1月21日、(金兵衛のおかみさんが市村羽左衛門の異母妹である話)

1月25日、街談録

先日聞いたある人の所説を記す。

現代日本のミリタリズムは秦の始皇帝杭儒焚書の政治に比べられる。ナポレオンの尚武主義とは同一でなく徳川家康幕府の政策ともけして同様ではない。前者は基督教国の軍国政治である。後者は儒仏二教の上に築かれた軍国主義である。この点から考察すれば現代日本の軍人政治の何たるかはおのずから明白であろう。(現代の儒教軽視への批判は荷風の所論)

1月26日、(知人から明治文人の原稿を見せられ)わたしはこれらの文献を見るにつけ空襲の事に思いが及び戦慄しないでいられない。返すがえす猪武者らの我武者羅政治を憎まないわけにいかない。

 

2月4日、夜杵屋五叟来る。八日から職工となり鮫洲の某工場に通勤するという。

2月8日、町会からの押し売り債券140円を日本橋仲買赤木屋で現金に替える。105円となった。

2月10日、夕食のさい人からもらった枯魚を焼く。臭気をがまんできない。食後伽羅を焚く。

2月11日、灯下小説踊子を脱稿する。・・数年来浅草公園六区を背景として一編を書こうと思っていた宿望を、今夜はじめて遂げることができた。欣喜擱くべからず。

2月12日、清潭子(川尻)から去年執筆した音楽映画左手の曲を返送してきた。その筋の検閲を受け不許可になったという。

2月13日、阿部雪子に鶏卵玉葱を贈られた。

2月15日、国際劇場裏のとある洋髪屋の戸口に無電気パーマいたします炭をお持ちくださいと貼り紙が出ていた。

2月23日、午後菅原氏音楽会四月開催の事につき来談。

2月26日、午後林龍作、小堀四郎、菅原明朗が来て話す。音楽会は五月初旬に開催しようという。

2月28日、(戸塚町にフランス本が多くあると聞いて出かける)フロベール全集皮綴りがあった。600円であると。ゾラ、カーライル仏訳本を買う。蔵書印に大学過眼とあった。堀口大学荷風教え子)の蔵書だったのだろう。

2月29日、明日より割烹店待合茶屋営業禁止。歌舞伎座その他大劇場の興行随時禁止の命令下るという。浅草六区でもゆくゆくは興行場が減少して三四か所になるだろうとの噂がしきりである。芸者はまだ禁止の令はないが出場所がないからこれはおのずから転業するであろう。芝居と芸者がなくなれば三味線を主とする江戸音楽はいよいよ滅亡するわけである。

 

3月3日、丸の内三菱銀行で偶然瓜生氏に逢う、先ごろまでイタリア大使館通訳事務に従事していたが今は辞めている。同国大使その他の館員は田園調布の某所に幽閉されているという。・・帰途電車で築地を過ぎるとき東京劇場歌舞伎座ともに閉場休業の掲示をしていた。市中いたるところ通行人は多くなく寂寥として夜のようである。

浅草公園興行物活動写真は平日のように開場しているという。

3月4日、正午谷崎君が訪問する。その娘は結婚して渋谷に住んでいるが空襲の危難があるので熱海の寓居に連れて行こうとする途中だという。わたしは昨冬に上野鶯谷の酒楼で会った時わたしの全集と遺稿の始末につき同氏に依頼したことがあった。この事につき種々細目にわたって聞かれるところがあった。世の人はこの三月になってから空襲が近いと言って急に騒ぎ出した。(谷崎の日記では偏奇館は荒れ果ててお化け屋敷のようだったと記している。独居のせいでもあり職人の手が入らなくなったためでもある。)

3月8日、某生の来書にいわく。三月下旬にはかならず空襲があるといって軍人らがもっとも狼狽しているといいます。これは華族にもなれず恩賞金にも最初予想したようにはありつけないのでいまさら負け戦になったといっても総理の椅子を捨てて逃げ隠れするわけにもいかないためで滑稽笑止のいたりでございます。軍人らは初めは帝都には敵機の影ひとつでも見せるようなことはしないと豪語し、いずれワシントンで条約会議を開くつもりだなどと申し、人民の金を取り上げむだ遣いしていたところ、いよいよこの始末になり実によい気味でこのニ三日は胸がすくような心持です。自分の身が空襲で危ないなどということを顧みる暇もありません。アメリカの飛行機は日本人民に100円紙幣とルーズベルトの著した世界平和会社設立書をまきちらすと宣伝するものもあります。とにかく世の中は少し面白くなりました。

3月9日、(隣家の植木屋に)門内のプラタナス二株を伐らせた。毎年刈込に来るはずの職人もいなくなったからである。

3月14日、午後五叟来話。五叟の次男をわたしの家の相続者とする相談である。これでいよいよ西大久保に住む威三郎(弟)の家とはわたしの死後にいたるまで関係ないこととなるであろう。この日やや気分よし。(6日から風邪をひいていた)

3月15日、風邪はおおかた癒えた。

3月16日、浅草公園に行く。荷物を背に負い手に提げた男女の乗客でどこの電車もほとんど乗ることができない。玉の井に行こうと思ったが東武電車の雑踏はことにひどい。

3月18日、浅草に行き観音堂のおみくじを引くと吉だった。わたしは空襲の際に蔵書と草稿の安否が心にかかっていたので運命の如何を占いたいと思ったのである。今日わたしは長寿を喜ばないが蔵書と草稿とは友人諸子に分けて贈りたいと思っているのである。・・街頭に出ると天候が一変して雪吹雪となった。彼岸の入りに雪を見るのもまた乱世のためであろう。町ノ角々ニ疎開勧告ノ触書出ヅ。

3月21日、数日来野菜が品切れとなり配給米には玉蜀黍の粉末を混ぜている。もそもそとして口にしがたいものである。

3月24日、午後日本橋四辻赤木屋で債券を売り、地下鉄で浅草に行きオペラ館楽屋を訪ねる。公園六区の興行場も十か所ほど取り払いとなると聞いたからである。オペラ館楽屋頭取長澤某のはなしをきくと、今月三十一日でいよいよ解散します。役者の大半は静岡の劇場へやる手筈ですとの事だ。二階の踊り子楽屋に入って見ると踊り子たちはそれほど驚き悲しむ様子もなくいつものように雑談していた。およそこの度の開戦以来現代民衆の心情ほど理解しがたいものはない。多年従事した職業を奪われて職工に徴集されてもさして悲しまず、空襲が近いといわれてもまた驚き騒がず、何事が起きてもただそのなりゆきにまかせて少しの感激も催すことはない。彼らはただ電車の乗り降りに必死となって先を争うだけである。これは現代一般の世情であろうしまったく不可解の状態である。

3月27日、玉の井に行く。京成鉄道線路跡の空き地に野菜の芽が青く萌え出ていた。とある空き屋敷の庭に蕗が多く生えていたので惣菜にしようと思って摘んだ。食物のない時節柄とはいえあさましくもあわれである。色里の路地に入ると事務所の男が家ごとに今日はモンペで願いますと触れ歩いていた。防空演習があるのだろう。旧道に出て白髭橋の方に歩く。電球屋で電球ひとつ懐中電灯を買う。また下駄屋で下駄を買う。これらのものはわが家の近くではみな品切れであるのにこの陋巷では買い手があれば惜しげなく売るのである。この日の散策が大いに獲るところがあったのを喜びつつ来た路をバスで言問橋に出る。南千住から来る市内電車を見ると夕方五時過ぎであっても乗客はそれほど雑踏していない。これに反して東武構内の地下鉄乗り場には人々が長蛇の列をつくっていた。

3月31日、昨日小川(丈夫)が来て、オペラ館が取り払いになり明日が最後の興行なのでぜひ来てくださいと言って帰ったので五時過ぎ夕食をすませ地下鉄で田原町から黄昏の光をたよりに歩みを運ぶ。二階踊り子の大部屋に入ると女たちの鏡台はすでに一つ残らず取り片づけられ、母親らしい老婆ニ三人が来て風呂敷包み手道具雨傘などを持ち去るのもいる。八時過ぎ最終の幕レヴューの演奏が終わり観客が立ち去るのを待ち、館主田代旋太郎は一座の男女を舞台に集め告別の辞を述べ楽屋頭取長澤が一座に代わって答辞を述べるうち感極まって声をあげて泣き出した。これにさそわれ男女の芸人四五十人が一斉にすすり泣いた。踊り子のなかには部屋にかえって帰り支度をしながらなおしくしくと泣くものもいた。おのおのその住所番地を紙に書いて取り交わし別れを惜しむさまは、数日前新聞に取り払いの記事が出てわたしがひそかに様子を見に来たときとはまったくちがっていた。わたしも思わずもらい泣きをしたほどである。回顧すればわたしが初めてこの楽屋に入りこみ踊り子が裸になって衣装を着替えるさまを見てよろこんだのは昭和十二年の暮れだから早くも七年の歳月を経た。オペラ館は浅草興行物のうち真に浅草らしい遊蕩無頼の情趣を残した最後の別天地なのでそれが取り払われるとともにこの懐かしい情味も再び味わうことが出来ないのである。わたしは六十になったとき偶然この別天地を発見しあるときはほとんど毎日来て遊んだがそれも今は還らぬ夢となった。一人悄然として楽屋を出ると風の冷たい空に半輪の月が浮かんで路は暗くない。地下鉄に乗って帰ろうとしてすでに店を閉めた仲見世を歩くうち涙がおのずから湧き出して襟を濡らし首はまたおのずから六区の方に向かうのである。わたしは去年ごろまでは東京市中の荒廃していくさまを目撃してもそれほど深く心を痛めることもなかったが今年になって突然歌舞伎座が閉鎖されたころから何事に対してもひどく感傷的となり、都会情調の消滅を見るとともにこの身もまた早く死ぬ事を願うような心となったのである。オペラ館楽屋の人々はあるいは無智朴訥。あるいは淫蕩無頼で世に無用の徒輩であるが、現代社会の表面に立つ人のように狡猾強欲傲慢ではない。深く交われば真に愛すべきところがあった。だからわたしは時事に憤慨する折々は必ずこの楽屋を訪ね彼らとともに飲食雑談してはかない慰安を求めるのを常とした。それなのに今やわたしの晩年最終の慰安処はついに取り払われて烏有に帰した。悲しまずにいようともいられようか。