虎度門 (1996)
5月におこなわれた香港金像奬式典は、コロナのために史上初のオンライン発表となった。景気づけに、芸能人100人による歴代1位影帝影后の選出が事前にあった。推戴されたのは女優が蕭芳芳、男優が周潤發だった。
蕭芳芳は1995年に女人四十で金像奬を獲得し、翌年も虎度門の演技が高い評価を得た。女人四十はアルツハイマーの義父および非協力的な家族と生活する幹部社員、虎度門は袁詠儀との共演で粤劇俳優を演じた。
虎度門
長い芸歴の集大成ともいえ、子役から黄梅劇、功夫武侠映画、青春映画、ミュージカル、喜劇、ホラー、社会派映画、犯罪映画となんでもこなしてきた実力が発揮されていた。
1993方世玉
李連杰の母を演じた。
男装の蕭芳芳を知らず恋してしまった胡慧中は、「今生ではかなわなくても来世ではきっと」といって腕の中で息絶える。
1992漫畫威龍
1991新精武門
周星馳との共演
1987不是冤家不聚頭では呉耀漢との喜劇で金像女主角奬を獲得した。
1978林亞珍
主演していたTV喜劇の映画化。高学歴だが不器用な主人公、ラム・アーチャン。喬宏とは女人四十で親子を演じることになる。
1982八彩林亞珍
陳星が珍しく喜劇を演じている。
1977女朋友
林青霞と共演し台湾金馬奬で受賞した。70年代は台湾映画への出演が多い。
番組で林青霞を探訪 。この時代の女性は、自然にヒゲもわき毛もあった。
1976跳灰
麻薬売買をめぐる犯罪映画で、ポスターのラスボスはすっかり薄毛になった陳星。昔ながらの功夫と汚れた香港の描写が交雑し、新しい波のさきがけになる過渡的作品だった。主演と共同監督をつとめた。
1974廣島廿八
原爆告発映画。胎内被曝して28年後の日本人女性を演じた。批評
1973年に邵氏が七十二家房客を発表し、広東語で香港の市井の人々の生活を描写した。粵語(広東語)片にかわり、港産片と呼ばれる新しい広東語映画の時代がきた。功夫映画と許兄弟の喜劇の波にのまれ、80年までに国語片は消えていく。
1970留学
芸能生活のため学校教育を受けられなかった芳芳は、米国の大学に留学した。陳寶珠もこの年留学している。
60年代を境に粵語片は完全に衰退した。粗製乱造作品にみな飽きてしまったためだ。電視や欧米映画、邵氏の製作する国語片に客をうばわれた。
芳芳は一貫して粵語片に出演しつづけた。戦前映画の都だった上海から逃れた映画人は良質な国語片を製作し、台湾や海外も市場とした。粵語片は地元映画人によって二番手として対抗してきた。これはパンジャービー映画とウルドゥ映画の関係と対比できるかもしれない。
1969飛女正傳
少年院入りする不良少女を演じた。
1968藍鷹
1967七彩封神榜
この年は30本に出演した。当時広東語映画は10日で製作されていた。鄭佩佩が主演した国語片の香江花月夜(1967)とくらべると、七彩(カラー)とは銘打っても製作は安手だ。
1966彩色青春
同年、七彩胡不歸 。この年に邵氏が大酔侠を送り出し、のどかで様式的な剣劇から現実味のある残酷な殺陣の時代になっていった。
1965如來神掌
手から手描きの光線が飛ぶ。
1965年に邵氏影城が建設され、豪華なセットが売り物の作品が製作されるようになった。70年代末には、それらは不良資産になるのだが。
1963紅線女夜盜寶盒
この年、臥虎藏龍 、火燒紅蓮寺、も製作された。
陳寶珠はたいがい男役、芳芳は女役だった。粵劇出身の陳寶珠と組んだ映画はどれも大当たりし、それぞれの影迷団が数十結成された。たがいの迷友の対抗意識は強く乱闘になることもあった。
同年、邵氏は国語黄梅戯片の古典となる梁山伯與祝英台を発表した。この年から英総督府は検閲の便のため字幕を義務化し、国語片には追い風になった。
1960青城十九俠
これが大当たりし、60年代武侠映画の大波が打ち寄せることになる。
孤星血淚 やはり子役だった李小龍と共演 芳芳は2分29秒あたりから登場する
1958苦兒流浪記
家なき子の翻案で、挿入歌世上只有媽媽好が両岸三地で流行した。
1955孤星血淚
大いなる遺産の翻案にあたる。
1954小星涙
電影人生の出発点。
蕭芳芳は1947年上海で生まれた。父は国民政府下の中国実業銀行重役で、芳芳2才のとき香港に移民した。父は早世し、家計のため6才で舞台に立ち、子役の道に足を踏み入れた。
The Most Beloved Onscreen Couple 陳寶珠 蕭芳芳
蕭芳芳 - 維基百科
Cinema of Hong Kong - Wikipedia
香港電影 - 維基百科