エミー・ミンワーラー

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エミー・ミンワーラー ایمی منوالا  はカラーチー出身のパールスィーで、顔や切れのいい小柄な体躯は L.ヴィジャヤラクシュミに似ている。ただし流儀はカッタク、しかもローシャン・クマーリーやサスワティ・セン級の踊り手だ。それほどの人だが、映像も記事もきわめて少ない。

balam mujhe jab dekhain re mar jaon ( Barsaat Mein  1962) 短くて画質も悪いがムジュラーの芸を見せる。

Dosheeza (1962) 白は主演のニーロー。 何かの偶像が人間に化けたニーローは、ミンワーラーの村でチャ

チャチャふうの変な踊りを踊る。ひどい説明だが、ほんとのことだ。

sanwariya ne hye daiya (Baaji  1963)  やはり L.ヴィジャヤラクシュミにそっくりだ。

sajan laagi tori lagan (同) 同じく古典ダンサーの Panna とヌール・ジャハーンの前で踊る。

Ishq Par Zor Nahin (1963) ほんもののカッタクの片鱗を見せてくれる。ここでもニーローがわけのわからない登場をして、シネマ・ムジュラー を踊る。

Roop Behroop (1971)  少し肉がついたミンワーラーが本人役で踊る。最後の出演作だが、やはり切れがいい。

 

ایمی منوالا  Emi/Amy/Minwalla/Minwala ほかラテン表記はバラバラだ。

Pakistan Film Magazine Emi Menuwala 1959-71年までの出演リスト。

Emmy Minwala – Cineplot.com 1955年の Sohni がデビュー作としている。

 

パーキスターンのホテル記事で、ミンワーラーが踊っていたことが記されている。映画とステージを兼職し、のちに専門の古典舞踊家になったらしい。結婚相手の映画製作者 Hassan Tariq は、一時ラーニーとも婚姻関係にあった。

パールスィーのエミー・ミンワーラー、カトリックのニーローらがどうやって踊りの技術を身につけたのかはよくわからない。パーキスターン在住のバラタナーティヤム・ダンサー  Sheema Kermani の記事 Dance in Pakistan では、1971年バングラデシュ独立と77年の軍事クーデターで世俗主義は後退し古典ダンスは壊滅状態になったとされる。この記事はパーキスターンのダンス事情を網羅しているが、映画ダンスと花街のムジュラーは完全に無視されている。

 

「タブー/パキスタンの買春街で生きる女性たち」 には、ラーホールのヒーラー・マンディーでの音楽家とダンサーの共助関係が描かれている。50万の人口をかかえる町で、女子は子供のころから踊りを習う。才能のあるものは名のある師匠に付き、ステージ、TV、映画界へとすすむ。そうでないものは、タワーイフとして宴席で披露するムジュラーをまなぶ。

(追記:ラーホール旧市街の人口が20万人とされ、ヒーラー・マンディーはその北端の一角にあたる。)

同著では町出身の女優の名があげられていたが、裏付けを取っているとは思われない。有名な女優が町育ちという幻想はありがちだから、他の情報との整合性がない一方的な記述はよくない。(邦訳では修正されている)

しかし、映画ダンスの技術や人材のみなもとが、ヒーラー・マンディーなどに住む音楽家たちに負うていることは事実だろう。