アーシャー・パーレーク

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dekho bijli dore Phir wohi dil laya hoon(1963)
敵の舞台に踊りこむ攻撃性が、ダンスバトルdanceoffの名にふさわしい。屈指のすばらしい場面で、相手もよくやっているのに無名の人だ。(ラーニーRaniだった。)
勝ったアーシャーは、ヘレンのpiya tu ab to aajaでは、客席でドギマギしていた。(ヒンディー映画、以下同)

nache mun mora Meri surat teri ankhen(1963) 
アーシャーはカッタクを修め、後にバラタナーティヤムも習得している。

chhedo na mohe  Hum hindustani(1960)
マードゥリーのKahe chhed moheと同じ、クリシュナがラーダーに戯れる情景。

o raat ka sama Ziddi(1964)
アーシャーの能力の高さがわかるナンバルだ。

 

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アーシャー・パーレーク आशा पारेख Asha Parekh

42年、ボンベイ生まれ。グジャラート出自の裕福な中流ジャイナ教徒家庭に生まれる。同市で最高といわれる、名門J.B.Petit.High school出身。幼時から学校で古典舞踊を習い、ステージにも立った。52年にベビー・アーシャー・パーレークの名で映画出演。ステージダンスがビマル・ローイBimal Roy 監督の目にとまり、54年にBaap Betiで準主演するが興行的に失敗、学業にもどる。(57年のAasha では、ヴァイジャンティマーラーのバックで踊っている。)

16才で主演再デビューとなったが、「スターの資質がない」として降板させられる。だがすぐに Dil deke dekho  の主演に選ばれ、トラウザー・スタイルが受け映画は大ヒット。一夜にしてスターとなった。本人と同じ、金持ちのおてんば娘のキャラクターを演じ続ける。以後、95年まで映画出演し、ヒンディー映画女優で一番多くヒット作をもつといわれる。一方、67年から80年代末まで映画配給のビジネスにもたずさわり、90年代にはテレビ監督に進出、自分の製作会社を所有し、インド初の女性映倫委員長に就任したが、厳格さで物議をかもす。

ダンスアカデミーを主宰(監督業が多忙で休止中)し、福祉活動に取り組み、ムンバイーにアーシャー・パーレーク病院があるほか、引退して孤老となっているかつてのスターたちとの交流をはかっている。

アーシャーによれば、「グジャラート出身の偉人、ガーンディーと誕生日が同じだけれど、かれのような平和の使者じゃなくて、自分がスタディオに入るとみんな逃げ隠れするありさま」だとのこと。実際、女優のときから敵が多かったみたいだ。