豆畑

マードゥリーの踊りの実力がぞんぶんに発揮された chene ke ket mein(豆畑)の振付を、コリオグラファーのサロージ・カーンが説明している動画 がある。
歌の冒頭のathra baraski kanwari kali thi(娘十八花なら蕾)、ghunghat mein mukhda chhupake chali thi (長い被りに顔隠す)のところだ。
サロージ・ジーは蕾のところでムドラーの蓮の型を示している。また目をのぞかせるジェスチャーでghunghat(ヴェール)を被っていることを表している。

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このあと豆畑で誰かに捕まった(腕を引く振付)、指を握られた、さらには娘の何かが失われたと続くきわどい歌なので chene ke ket mein のコメント欄はいろいろとうるさいことになるのが常だ。インドの披露宴の実際は知らないが、映画の場面としてはマードゥリーが新婦に性教育をほどこしていることになる。
踊りはアビナヤというかほぼ「当て振り」で、失った失ったと歌いながら夫のところへすり寄るマードゥリーに、失恋者のシャールクとしてはヤケ酒を一気飲みするしかない。

ところで東アジア人からすれば、これは「誰かさんと誰かさん」の麦畑だ。
帝国/植民地と立場の違いはあるが、歴史や言語で共通するものの多いUK/インドだから、同じ中央アジア起源の民謡ではと思ったりもしたが、tubeでchene ke ket meinはAnjaamがらみでしか出てこない。Raniのkara sheyah karaのような、一般的な結婚の戯れ歌というわけではないようだ。ちなみにヴィディヤー・バーランは(ジョークだろうが)「この歌が好き」といっている。サロージ・ジーもまた別のところでは、「これを演じるさいは色気がないとつまらないものになる」と教えている。魚心に水心であるから興がわくのだし、披露宴で演じるナンバルとなりうるわけだ。

 

Wikiのcoming thro the ryeにあたると、この歌はもともと「蛍の光」のメロディーで謡われていたようだ。なるほどオールド・ラング・サインと「麦畑」はよく似ている。さらに試してみると、athra baraski kanwari kali thiは蛍でも「麦畑」でもそのまま歌えるではないか。
つまりchene ke ket meinの故郷の空は、スコットランドだったということだろう。


いただきは平常なインド・ミュージカルだが、キスどまりの民謡を豆畑の春歌にしてしまうのはやりすぎかというと、オリジナルはもっと露骨らしい。それをロバート・バーンズが人口に膾炙できるものに改作したようだ。chene ke ket meinは原詞に近い翻案といえないこともない。

 

以下はまったくの蛇足。
ライ麦畑で捕まえる人になりたがっているホールデン・コールフィールドは一体何者だ。オリジナルの猥歌と小説の関連を論じた欧米人がいるか知らないが、ねじれた性的含意を疑わないほうがむずかしい。かなりあぶない話では、というのはウソだ。

 

さらに蛇足。マードゥリーの恩師、よきパートナーであるサロージ・カーンは見てのとおりの体型で、振付師の資質はダンス能力より想像力や圧力にかかっていることがわかる。男では小錦みたいなガネーシュ・アーチャールヤGanesh Acharya(マードゥリーのbadi mushkil振付)が、存在感を買われて「オペレーション・メコン」に男優として登場している。