インドの嵐が丘(2)

映画の「嵐が丘

嵐が丘」ともなると、エミリー・ブロンテが輪廻転生して監督になるのでもなければ真正の映画化などは不可能だ。これがまず前提。だから今まで製作された作品はみな翻案かダイジェストと割り切ったほうがいい。


マール・オベロンローレンス・オリヴィエの39年ハリウッド作は荒野をよく描き原作の背景をうまく視覚化しているが、撮影現場はカリフォルニアでそこが映画の油断ならないところだ。野原のあちこちに石を積んで扇風機で風を起こせば、われわれはもうヨークシャーだと信じてしまう。重要なロケーションであるペニストン・クラッグズの岩場もあまりにイメージ通りなだけに、ハリボテかマットペイントだと疑ったほうがいいだろう。

話は100分で第一部だけを身分違いの悲恋映画として描いている。それでもマール・オベロンの「I am,Heathcliff!」は十分に感動的だ。
オリヴィエはハンサムだしオベロンは勝気なキャサリーンをよく演じていたが、本来は十代の子たちの話をアラサー男女がこなしているので別物の翻案作品と考えるしかない。

 

マール・オベロンボンベイ生まれのアングロ・インディアンであることを生涯隠し続けた。マオリの血も入っているらしくオリヴィエよりヒースクリフ的だ。
ちなみに、当時オリヴィエの恋人でキャサリーン役を熱望していたヴィヴィアン・リーも、ダージリンで生まれウダガマンダラム(通称ウーティ)で育ったインドにゆかりある役者だった。このキャスティングは実現せず、ヴィヴィアンは風と共に去り「嵐が丘」とオスカーを争った。

 

ジュリエット・ビノシュとレイフ・ファインズの92年版は100分で一部・二部を追っているので、印象的場面をちりばめたダイジェストというしかない。それでもカラーだしビノシュが活き活きしているところに取り柄があった。

 

ヒースクリフの人物像からアフリカンを主役にした2012年作品がある。また熊切和嘉の「私の男」は「嵐が丘」の影響下にあるだろう。

 

そしてインドの「嵐が丘」 Dil Diya Dard Liya (1966)となるが、ここではワヒーダー・レヘマーンがキャサリーン、ディリープ・クマールがヒースクリフを演じる。交歓の場であるペニストン・クラッグズはシャンカラ(シヴァ)神像に置き換えられている。インドのヒースクリフの名はシャンカルだ。
さらに手塚マンガのハム・エッグ似であるプラーンがタークルthakurである兄、その愛人のタワーイフをカッタクの名手ラーニー、キャサリーンの婚約者をレへマーン、その妹のイザベラ役が
Barsaat Ki Raat のシャーマーと、脇にいたるまでキャラクターを立てている。
他のキャストもおろそかでないのは、インド版はモンテ・クリスト伯のような復讐譚だからだ。そのかわり愛情譚としてはありきたりで深みはない。


どこかから連れて来られた子が実は貴種で、虐待されながらもその家の娘と恋仲になるという設定は、インド映画では既視感がある。だから福相のディリープ・ヒースクリフはただの典型で、キャサリーンも泣いて耐えるだけの昭和女みたいで面白みはない。そのかわりシャンカルは実はマハーラージャーの世継ぎで、話の進行上では一点の曇りもない基盤をもっている。あとは運命のボタンのかけちがえがどう修正されるかを余裕を持って眺めることになる。

生き生きしているのは悪役のプラーンで、酒とタワーイフに溺れながら破滅の道行をする。ここでのインド的ひねりは、せっかく王族としてヒースクリフが再登場しながら、借財のカタに兄が定めたタークルであるレヘマーンとキャサリーンの婚約をくつがえせないことにある。


デーヴダースは親に逆らわずパーローを捨て自滅の道をたどり、パーローも「父は神だから」とザミーンダールとの婚約に従う。インドの「嵐が丘」でも家長の権と社会の掟はマハーラージャーより強く、ヒースクリフはデーヴダースのように歎き苦悩し続ける。キャサリーンは涙にくれるばかりだ。


これはワヒーダーが蹴りたい背中の持ち主だからではなく、インドの完成された古代階級制が内婚制によって成り立っていることによる。このおかげでカーストや古代社会は数千年にわたり(下層民を犠牲にして)安定または停滞してきたので、個人の力で覆せるものではない。観客は社会の壁にぶつかり苦しむ恋人たちに共感するため映画館に来る。「デーヴダース」と並ぶディリープ・クマールのヒット作「ガンガー・ジャムナー」もボニー&クライドのような話だった。

 

映画人、ことにヤシュ・チョープラーのような近代主義者たちはインド社会の変革の鍵として恋愛映画を製作しつづけてきたと思う。階級構造を変えるには家長が決定する カースト内婚姻でなく、個人の意志にもとづいた自由恋愛を推奨して身分社会に流動をもたらすべきだと考えたのだろう。それは観客の願望を満たすものであった。カーストの義理と男女の情のあいだの葛藤から生まれるドラマは、歌舞伎や新派のように長くインドの映画人口を引き付けてきた。
しかし映画自身が変革の動力を示せたことはなく、そこでの恋愛は親の決めた婚約者が善意で身を引くか思いがけぬ時の氏神(犬だったり)のおかげでハッピーエンドにこぎつけるのが常だった。これは前世紀までの話。
インドのキャサリーンとヒースクリフの場合は、タワーイフに財産を奪われた兄が殺人に手を染めて自滅し、恋人たちは家長の銃火に倒れることで禊をうける。

 

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Dil Diya Dard Liya でワヒーダーは踊っていないが、ラーニーがムジュラーを二曲披露する。「B級トップダンサーたち」記事では dil haarne wale aur bhi hein を紹介した。ラーニーは haye haye rasiya tu bada でも踊りの手並みを見せてくれる。