ミーナー対オヤジ

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エロとギャグのない表現は不完全だ、と書くとバカみたいだが、古典的に「シュリンガーラとハースィヤのラサが欠けているから」と付け加えればもっともに聞こえるだろう

 

インド映画を初めて知ったのは、たまたま「チャールラター」 চারুলতা (邦題チャルラータ)の放映を観たときだった。それまで経験したもっとも官能的な作品だったと思う。

しばらくしてムトゥのミーナーを見て、映画ダンスの肉感的すばらしさを知った。といっても欧米にくらべて露骨な性表現があるわけではない。中国と世界の富を二分していたころのインドは乳首で動じたりしなかったと思うが、偽善的なヴィクトリア朝支配の傷跡がまだ残っていて表現はタブーだらけだ。それでも映画ダンスは愛欲にまみれているし、ラサはしっかりと伝わってくる。

 

その後いろいろ漁り、タイトルとジャケのひどさから猫またぎしていたマードゥリーの「アンジャーム」に最後に手をのばして仰天した。福は残り物にかくれていた。そこが人生の岐路で今にいたるのだが、初めての人は忘れられないというものでずっとミーナーが好きだ。

 

ブロックバスターをいくつも叩きだしもはやラミヤーとならぶ大女優だが、よい振付作品があまりないのに口惜しい思いをしてきた。子供のころから修練を積んでいるから、細かい所作がきまっているし身体能力もある。古典もモダンも対応できる。しかしそういった美点は数知れず踊った他愛ないナンバーのなかに分散している。これはインドの踊り子全般にいえることで、独立したダンス作品など求めるこちらが変態なのだ。

 

だから代表作でなくあれこれ網羅してミーナーの魅力をさぐってみたい。
ミーナーが同型のシュリーデーヴィーにもジャヤマーリニにもならなかったのは、性格の問題だろう。強いエゴや強いエロがあまり感じられない。イケズな表情も見せるし、肉には不自由していないのだが、ほどよく上品で良妻賢母の枠におさまってしまう。神様映画に出てもニコニコして人のよさそうな女神で、怖さや迫力はない。

 

そうしたミーナーの性格は「オヤジを輝かせる」ところで発揮された。主演男優を立てて、食ってしまうことがないので重宝されたのだろう。何よりミーナーが登場すると絵面がぱっと若やいできれいになる。ここらへんは同じ魚形の目をもつシュリヤ・サランに似ている。
ここでいうオヤジは20以上、つまり親子ほど年が離れていて、ほぼカツラを着用している。なのに、みなミーナーと結ばれるのだ。

 

aalappol velappol (Ejamaan 1993 Tamil)
aathile annakili (Veera 1994)
オヤジの代表はなんといってもラジニ。

 

ennavendru solvathamma (Rajakumaran 1994 Tamil)
manasai killi edukkira  (Manam Virumbuthe Unnai 1999 Tamil)
これでもプラブはラジニより6つも若いのだった。

 

oru maina kunj (Oru Oorile Oru Rajakumari 1995 tamil)
ミーナーには田舎が似合う。バギャラージはコメディーの達人で才人。

 

dheemthana (Maman Magal 1995 Tamil)
sori sori  (Maaman Magal) (字幕付)
katharu satai  (Vallal 1997 Tamil )
サティヤラージは悪役からヒーローに転じるにあたってカツラを付けるようになった。

 

thendralukku theriyuma (Bharathi Kannamma 1997 Tamil)
ミーナーはザミーンダールの娘で低カーストのパールッティバンに恋する。

 

thannane thamarapoo (Periyanna 1999 Tamil)
田舎のドンであるヴィジャヤカーントの回想で登場。

 

nilave vaan nilave  (Maayi 2000 Tamil)
サラト・クマールは訳あってミーナーの求愛を拒絶する。

 

kichaami kichaami (Commissioner Eeswar Pandiyan   Malayalam?)
通販では Commissioner Eswara Pandian タイトルでマンムーティ主演の2001年タミル映画とあるが、スタッフ、キャストともにマラヤーリーなのでマラヤーラム映画の吹替ではないか。