首塚記事のヴェレシュチャーギンが描いた中央アジアシリーズの中に、バッチャ・バーズィーの肖像画があった。寵童と訳したが、ペルシア語そのままなら稚児遊びのほうがいい。侵略軍の従軍画家ヴェレシュチャーギンは、バッチャの魅力をとらえている。
19世紀サマルカンドのバッチャ
稚児遊びの風習は形態こそちがっていても世界的通時的なもので、文明あるいは近代の上からの目で裁断することはできない。デーヴァダースィーやタワーイフと同じく、尊敬も差別もされてきたことだろう。
男娼は女娼と同じく主流の婚姻制度の対等の補完物で、また古代の男女隔離社会では恋愛は本来同性に属する。二性制も人の自然とは別の架構だ。
若衆歌舞伎は、17世紀に遊女歌舞伎とならんで人気となった。18世紀までに次々と禁止されていったが、女形と蔭間は生き残った。
オスマン帝国の踊る少年たち。非テュルク系の被支配民から徴募され、Köçekキョチェクと呼ばれた。
霸王别姬 (1993)
アフガーニスターン・バッチャの踊り。旋回はあるが、決まった流儀はないようだ。
クンドゥズのバッチャ・バーズィー。
侵略正当化のプロパガンダ映画 Kite Runner (君のためなら千回でも 2007)は、ターレバーンによってバッチャにされた子供を在米アフガーン人が奪還するランボーのような作品だった。幸福な子供期の撮影は、米中蜜月時代の新疆でおこなわれた。
実際はターレバーンはこの風習を歌舞音曲同様に禁じていたが、カイライ政権下で復活した。帝国は黙認しただけでなく、民間軍事会社員が大いにサーヴィスを利用したとされる。
パシュトゥーンのカッタク記事で、ムルターンのハッタク族少年が踊る旋回舞を紹介した。初めは晴着を奇異に思ったが、アフガーニスターンのバッチャと同じ衣装と気づいた。ハッタク族はインダス川ぞいに移住していったパシュトゥーン人で、バッチャ文化を継承しているのだろう。この子供が、性奉仕をともなうバッチャとなる運命にあったのかはわからない。南アジアの男娼は、いろいろな姿をもつ。
女装も普通の少年もいる。パーキスターンの結婚の宴。