1509 ディウ沖海戦。赤ポルトガル艦船対コーリコード小舟、グジャラート帆船、エジプト・ガレー船。オスマンとヴェネチアは艦船と傭兵を提供した。火器に圧倒的な差があった。水面砲撃戦術による跳弾で、クンニャーリ・マラッカールひきいるコーリコードの小舟は撃退された。
ターヌールの数学者が天体を観測しヴァルヴァナードの刺客団がザモリンを襲撃しているころ、マラバール海岸ではコーリコードの船隊がポルトガルと死闘をくりひろげていた。
コーリコード海軍の提督は4代にわたって、戦う船主を意味するクンニャーリ・マラッカールの称号をもっていた。アラブあるいはエジプトから来たムスリムだったといわれる。
ポルトガルの来航以来コーリコードとアラブ商人は戦いをつづけてきたが、1509年のディウ海戦でオスマン、エジプト、インド連合艦隊は決定的に敗北した。
こののち初代クンニャーリ・マラッカールが立ってゲリラ戦に転じ、バックウォーターの利を活かし小舟でポルトガルに打撃を与えつづけた。
wikiの記事によれば
1498 ヴァスコ・ダ・ガマ、マラバールに到着。コーリコード領主ザモリンと面会。貿易交渉はうまくゆかず住民を人質にして出帆、追跡する船団を破壊して本国に帰還した。
1500 コーリコードはポルトガルを追放。対立関係にあったコチとカーヌールはポルトガルを援助した。
1502 ガマ再度来航。マッカへの巡礼船を攻撃虐殺。マラバール海域を封鎖して砲撃。
1503 コチがポルトガルの保護国になる。初代クンニャーリ・マラッカール、コーリコード海軍立て直しを命じられる。
1505 ポルトガル初の要塞をコチに築く。
1508 エジプト海軍ポルトガルを撃破。
1509 ディウ沖海戦。インド・エジプト・オスマン連合軍は壊滅。以降アラブはマラバールから撤退する。
1510 ポルトガルがビージャープル国領ゴアを占領。
1513 コーリコードにポルトガルが要塞を建設。
1520 ポルトガルによるザモリン暗殺未遂。
1524 ガマ再訪。到着後マラリアで死亡。
1525 ポーンナーニ攻防でポルトガル敗北。
1529 オスマンによるウィーン第一次包囲。
1530 ターヌールがポルトガルを援助。
1540 ザモリンは停戦を結ぶ。
1549 ターヌール領主クリスチャンに改宗。
1561 ゴアに異端審問所。
1565 ヴィジャヤナガル王国がデカン・イスラーム朝連合に大敗し、ポルトガルは打撃をうける。
1569-70 ザモリンはポルトガル開戦。
1571 コーリコードの要塞を包囲されポルトガル敗北。地中海レパント沖の海戦でオスマン敗北。
1573 マラッカール3代目がザモリンから要塞建設許可をえる。ムガルはグジャラートを占領。初めて海に出る。
1584 マラッカールの勢力拡大に危機感をおぼえたザモリンは、対ポルトガル政策を転換する。
1586,1589 マラッカール、ポルトガルを海戦で破る。
1587 秀吉バテレン追放令。
1590 マラッカール、ザモリンと距離をとりはじめる。
1595 マラッカール4代目、マーッピラ(マーピラとも。マラバール・ムスリム)の王を名乗る。
1598 ザモリン・ポルトガル連合軍、マラッカールに大敗する。
1600 連合軍は海陸からマラッカールの要塞を攻撃。降伏したマラッカールは処刑。
ポルトガルは西洋列強によるアジア初の植民地を獲得したが、攻防は一進一退で内陸支配まではおよばなかった。やがてオランダつづいて英国に覇権はうつり、各個撃破されてインド世界の帝国支配は完成する。
これまでの歴史上の争闘では、だれが覇者になっても領域内で支配と経済は完結・循環していた。しかし列強下では富は流出し西洋資本主義成立の原資を提供するだけとなり、富裕だったインド世界は貧困化の道をたどった。それがふたたび還流するのは、まだ先のことだ。
クンニャーリ・マラッカールを主人公にしたマラヤーラム映画は2本ある。
12月に公開予定のMarakkar Arabikadalinte Simhamマラッカール:アラビア海の獅子はモーハンラール主演で、マラヤーラム映画最大の予算を投じて製作された。監督はプリヤダルシャンでキャストも豪華だが、故Nedumudi Venu がザモリンを演じている。
1967年には Kunjali Marakkar がプレーム・ナスィール主演で映画化された。
こちらにはスクマーリやジョーティラクシュミが顔を出している。この映像には2021年版の音楽とタイトルがつけられている。カリビアンふうだ。