柏崎市女谷高原田 小切子はリズム楽器である手にした二本の棒のこと
新潟県柏崎市の綾子舞は、歌舞伎成立前後の芸能の姿を残しているといわれる。
「ユライという独特の赤いかぶり物や、扇の手、振りの様子などが、『采女歌舞伎草紙』に描かれている芸態とよく似ていること、加えて伝えられる曲の詞章が、『采女歌舞伎草紙』所掲の歌謡や女歌舞伎踊歌と思われる「おどり」(天理大学所蔵の写本)に入っている歌謡と同じだったり、共通するところがたくさんある」(岩波講座歌舞伎・文楽 歌舞伎の歴史Ⅰ)
上の映像は柏崎市女谷下野の舞で、下は鵜川をはさんで1kmもはなれていない女谷高原田のもの。下野は三人で着流し、高原田は二人組で袴のちがいはあるが、歌や振付は共通する。
綾子舞には鐘引という若衆歌舞伎の演目も存在する。古くは綾子踊と呼んだ。
ここから出雲の阿国が最初に踊っていたという、二人組で踊るややこ踊りとの関連がいわれている。
ややこは子供で、子供だった阿国は当時流行していたややこ踊りの踊り手のひとりだった。子供による踊りは聖性を意味し宗教的性格をもっていたが、このころはすでに巡業する芸能娯楽のひとつだった。
阿国は成人してからかぶき踊りを創始し、全国的流行によって今日の歌舞伎を誕生させることになった。
香川県まんのう町加茂神社
綾川町滝宮は、まんのう町に隣接している。田楽衣装に似ている。
10世紀に空也上人がはじめたという踊りを伝承している。
これは1980年代初期の記録で、平安時代にはじまった風流踊り、小歌舞の姿を残している。もとは川瀬躍と呼んだ。
現代のややこ踊り 今田美桜が所属していた柳川SAGEMON GIRLS ビリビリ版
かぶく人々
国女歌舞妓絵詞
出雲の阿国がややこ踊りとかぶき踊りを演目に登場したのが慶長8年(1603年)で、この絵詞はそれからほどない慶長年間に描かれたとされる。念仏踊りの姿で手に鉦をもち、女歌舞伎以後に登場する三味線が見られないなど古式を伝えている。
国女歌舞妓絵詞
こちらでは男装してかぶき踊りを演じている。かぶきは傾奇で、当時の浪人者である奴が茶屋あそびをする風俗を描写し爆発的な人気をえた。刀をおもちゃにし、傾いた姿態をとる踊りから歌舞伎が誕生した。明治になるまでは歌舞妓が正式な表記であったところに、本来は女性芸能だった痕跡が残っている。
かぶくはいまの言葉でのイキる、オラつく、グレる、ヨタる、反社と相同ではないが相似し、勝手な振る舞いをする、奇抜な身なりをするなど非伝統的身体表現や価値観を代表する言葉だった。それを女性が演じる倒錯から批評性が生まれる。
阿国歌舞伎はまたたくまに模倣者を生み、全国に広がった。また遊女歌舞伎、女歌舞伎、若衆歌舞伎、野郎歌舞伎などへの変遷をへて今日の歌舞伎に至る。
かぶきの象徴的表現であるかぶく姿勢と異性装は、さまざまに描かれている。
阿国歌舞伎図
歌舞伎図巻
この図には外国人の観客も描かれ、国際貿易と商品経済の発展をうかがわせる。ややこからかぶきへの飛躍は内戦の終結と経済の国際化を通じた町人層の資本蓄積、町人文化の成立を背景にしている。
阿国歌舞伎図屏風
花下遊楽図屏風
洛中洛外図(岩佐又兵衛)
洛中洛外図(岩佐又兵衛)
歌舞伎図屏風
この独特の傾いた姿勢は三曲、トリバンガTribhangaを連想させる。柔軟な女性の身体性を表している。
マディヤ・プラデーシュ州 9世紀 飛天彫像
あるいは17世紀サファヴィー朝ペルシアの Reza Abbasi
生殖行事
綾子踊の演目にある小原木(大原)と常陸、あるいは奈良の篠原は歌垣や嬥(かがい)の名所として知られていた。筑波山の歌垣には、信州など遠隔地からも参加者がいたことが記録にある。
現在の振付にエロの要素はないが、もともとは若者宿や娘宿などにみられるように隔離された両性の出会い求愛の場が歌垣だった。いまでも奇祭としてわずかに残る大っぴらな性風俗と、雑魚寝と呼ばれた群婚、芸能、宗教儀式、などが混然としたものが古代の祭だった。
歌舞伎は都市化によって商品となった性と、それを見せるための芸能であるところが画期的だ。