長女の仁村紗和は、胡慧中に似ている。台湾文芸映画で林青霞の後継と目され、香港に渡って覇王花シリーズで刑事役の第一人者になった。仁村は、若草ではあまりいいところがなくて残念だった。
仁村は派遣労働者の運動を始め、ついでに新しいパートナーを選んでさっさと引っ越してしまった。
四女の畑芽育は男友と分手し、パリに留学することになった。
次女の堀田は幼なじみに告白されるが拒絶し、これも破局となった。三女の長濱ねるはあいかわらず漁村で、今回登場しなかった。
あっというまに姉妹解散となったが、次の第十話が最終回で閉店セールのようにあまりに展開がせわしない。これはたぶん視聴率も評価も低いので、回数を減らされたからだろう。
畑の男友、現役アイドル深田竜生の演技はわるくなかった。井手上漠は演者でやっていけるが声もふくめ完全に女性で、そうなると役の意義がよくわからなくなる。堀田が男装する伏線か。
畑をめぐるエピソードは、物語に唯一の流れを作っている。
こちらは楽しんで観ていたので残念だが、なにより堀田の独身主義の理由の掘り下げがないのがものたりなかった。泣いても笑っても堀田の演技は巧みだが、なぜそういう感情表現になるのかがわからない。次女の人となりが知れぬままだからだ。
男にだらしない母親への反発はあるだろう。また想像で補うしかなかったが、姉妹間で男性役をしていたことにもよるだろう。(堀田は大工仕事が達者だった。)しかしそれらが独身の理念にまでなっていたとは思えない。
自分に忠実な男友の求愛に、嫌悪で応えるからにはもっとちゃんとした説明が必要だった。ここらが回数不足を口惜しく思う理由だ。
結婚願望のある長女は煮え切らない男との交際をつづけていたが、最後は自分から打ち切った。男は都合のいい女として利用していただけだった。それは堀田が相手の気持ちを知りながら、幼なじみに取っていた態度とあまり変わらない。
幼なじみはヨン様に似ている。
四女は男友に仕事のパートナーとして夢をたくしていたが、男の愛の対象は扶養する弟であることを理解し身を引いて留学を選ぶ。
堀田だけが自分自身と状況をわからず、最後はひとりになってしまった。まるでリア王だ。
結婚や恋愛は日本ではあまり流行らないし、結果として旧来日本人と呼ばれた人々は人口維持もできなくなっている。その反映で能年の私をくいとめてや岸井の恋せぬふたりのような作品が生まれてくる。
韓国や日本のような火薬庫やこわれた原子炉の上で、子供を作りたいとは種の本能で思わないものだろう。女にしてみれば地方に行けば前近代で都会は貧乏というのも、種族維持の熱意をそぐはずだ。
そこから能年や岸井の作品の独身主義とそのジレンマへの理解は生まれるが、若草の堀田の場合はもう終局なのに主人公の心持ちがよくわからない。中身はおっさんとして描けば、喜劇として成立しただろうが。
原案者のオルコットは確固たる女権主義者で、それをもとに次女のジョーは描かれている。ドラマはどうなのだろう。最終回でちゃんとした答え合わせがされるといいが。