夏子と寿恵子

 

お札の肖像のもとになった晩年の写真を、若いころのようにふっくらと加工した画。貧乏神に取りつかれて早死にした一葉は、失われた20年の象徴といえるか。

 

朝ドラの主人公は、牧野富太郎と妻の壽衛をモデルにしている。二人の出会いは、牧野が麹町に住んでいるころ飯田橋の菓子店の娘である壽衛を見初めたからだった。

それがドラマでは、上野に近い根津に住んでいたもの同士として脚色している。

寿恵子が八犬伝ファンで本郷のご近所というのは、同じく馬琴好きの一葉を下敷きにしているのではと思った。

 

樋口夏子は内幸町に生まれ、生涯ほぼ本郷周辺に住居をかまえた。

1876年(明治9)4才の時本郷に移った。赤門前の法真寺の隣で、700平方米の敷地をもつ屋敷だった。夏子はこの家を、庭の桜にちなんで桜木の宿と呼んだ。ローソン赤門前店あたりだ。

御家人東京府の小吏だった父親は利殖に長けていて、家を買っては転売する不動産業者で金貸しの顔ももっていた。上にリンクした記事にあるように夏目漱石の父は上司であり、夏子と夏目家の縁談も事実だ。借金については、資金繰りのために融資を頼んだということだろう。父親が運送業を起こし破綻するまでは、樋口家は裕福だった。

 

 

 

その後、10才で下谷御徒町に転居した。12才で高等小学校を中退させられ家政と裁縫を学ばされたが、利発な娘を憐れんだ父親が14才で小石川の歌塾萩の舎に入門させた。以後、独学で歌道と古典文学を身につけることになる。

 

 

14才ころの夏子

 

1889年(明22)に失意の父は死去し、一家は本郷菊坂町に引っ越す。上の地図に旧居跡が記されている。菊坂町はのどかな丘で、野原で摘んだ菜を食卓に乗せたりした。坂の途中には、足しげく通うこととなる質屋の伊勢屋があった。

 

 

後列真ん中が萩の舎時代の夏子。

 

夏子は作家として生計を立てようとして失敗し、1893年(明26)吉原に隣接する下谷龍泉寺町の商店街で荒物屋をはじめる。これも長くは続かなかったが、ここで社会底辺の実相を知る。

 

1894年(明27)ふたたび本郷近辺の丸山福山町にもどり、上の地図左上の興陽社北隣に終の住処を定める。「にごりえ」「たけくらべ」を世に出したが、もう夏子には2年の人生しか残されていなかった。

 

 



より大きな縮尺で見ると赤門前からはじまり、右下の御徒町駅東が下谷御徒町で旧武家地だった。そこから菊坂町、さらに丸山福山町とほぼ本郷周辺で人生をおくっている。これは世間がせまい昔の人としては、めずらしいことではない。

地図左の伝通院の丘で「にごりえ」のお力は殺され、ファミマ伝通院店から南へ下る安藤坂に萩の舎はあった。これらの道を健脚の夏子は歩いた。

 

ドラマでは地図北上の根津に寿恵子の店はあった。不忍池から続く下町だ。牧野が通った小石川植物園は左上に見える。ドラマ主人公はおディーンの坂本龍馬に土佐で出会っているので、浜辺もこの先どこかで同世代の夏子とすれちがうかもしれない。

 

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