2024-01-01から1ヶ月間の記事一覧

荷風マイナス・ゼロ (33)

ベルリン・オリンピック 昭和11年(1936) 6月5日、「帰途杉野斎藤二氏及び女給満子と自動車に乗り霊南坂を登る。路傍の交番より巡査走り出で住所氏名を問い、満子女給たるをもって拘引せんとす。尋問十余分間しばらくにして逃るるを得たり。警吏の嫉妬恐るべ…

Eye Love You  大奥 マエストロ

さっそくエロがらみになってきたが、あくまでコメディーだ。二階堂の演技は場面ごとの効果でなく、話全体の中でキャラが一貫するように組み立てられている。何の事件もないドラマなのに、二階堂を見ているだけでおもしろい。 二階堂が人の心を読めるのは、ラ…

荷風マイナス・ゼロ (32)

Manishprabhune 亀戸天神藤棚 昭和11年(1936) 5月2日、銀座から亀戸に行き亀戸天神の藤棚を見る。浅草雷門に寄って仲見世を歩き、電車で帰る。 5月4日、京橋から浅草公園に行く。言問橋で休み、玉の井に寄り銀座に帰る。 5月11日、浅草の活動小屋の絵看板を…

荷風マイナス・ゼロ (31)

昭和11年(1936)4月16日に、荷風は乗合自動車で日本橋から砂町に行った。そこで葛西村行きに乗り換え終点の長島町(現在江戸川2丁目)に至った。さらに乗掛海岸(?)行きに乗り北に向かい終点まで行ったとある。この記録はあやしいところがあり、着いたのは…

荷風マイナス・ゼロ (30)

隅田川明治座近くの浜町公園あたりに、荷風の通った水練場があった。 荷風が東に向かったのは川の記憶があったからで、12才ころの夏は浜町に毎日通って泳いでいた。潮の干満にあわせ北は浅草、南は地図下に先端が見える佃島まで往復したと回想している。1879…

荷風マイナス・ゼロ (29)

隅田川と分水された荒川(当時の名称は単に放水路) 昭和11年(1936)ごろから荷風は、銀座に向かっていた足を東に延ばしていった。浅草墨東時代のはじまりだ。 理由はいくつか考えられるが、この時期に書いた放水路に当時の心境が示されている。 「四、五年来…

荷風マイナス・ゼロ (28)

1927年円本ブーム時代の荷風 麻布の洋館に住み毎日銀座で外食し4-5日にいちどは街娼を買う、荷風がそんな生活をできたのは資産家だったからだった。財産の半分ちかくは親から相続したもので、さらにそれ以上をおもに昭和はじめの円本ブームで得ていた。 荷風…

Eye Love You

二階堂ふみが出ているので見たのだが、おもしろいかだめなのかまだよくわからない。 プロミス・シンデレラとおなじく年の差恋愛で、そこは期待していた。話はまったくのファンタジーで北の海に飛びこんで遭難して以来、人の心が読めるようになってしまった設…

さよならマエストロ 大奥

今期のドラマ、さよならマエストロの第一回がおもしろかったのでつづけて見ている。変わり者の音楽家が廃止直前の楽団を再建するおきまりの話だが、西島秀俊の指揮者ぶりが楽しそうでいい。 かくれた主役が富士山で、やはりとにかく大きい。 パシフィック・…

荷風マイナス・ゼロ (27)

四つ木橋1932年 昭和11年(1936) 4月2日、銀座で古本市に寄ったあと放水路の景色が見たくなって、市電で南千住に行き京水自動車というのに乗り西新井橋に至った。堤防を歩くと堤の下に乗合自動車が走っているので見ると、北千住から川口に行く路線だった。し…

荷風マイナス・ゼロ (26)

2.26 部隊の動き wiki 昭和11年(1936) 2月1日、銀座喫茶店キュペルで、「隣席に二人の客あり。泥酔放歌傍人の迷惑を顧みず往々猥褻なる言語を発す。その去りたる後茶店の主人に問うに一人は内山幼稚園の教師、一人は三田魚籃寺の住職なりと云う。風教の退廃…

荷風マイナス・ゼロ (25)

戦前の田園調布 昭和11年(1936) 1月1日、「社殿の格子に石板摺りの選挙粛正の紙を貼りたり。殺風景もまた甚だし。」 1925年からの男子普通選挙法では選挙違反の厳しい罰則が定められていたが、政友会民政党の縁故買収などの不正は止まなかった。5.15事件で政…

荷風マイナス・ゼロ (24)

1925年表紙 1943年表紙 昭和10年(1935) 11月1日、「尾州熱田神社神殿落成祝賀のためなりとて銀行会社業を休む。明治以来未だかつて在らざることなり。」 11月3日、「ニ三日来花火の響き絶ゆる間もなし。昭和以来暗殺提灯行列祭礼など騒がしきことのみ流行す…

荷風マイナス・ゼロ (23)

「東京朝日新聞」1935年(昭和10年)7月20日の中央公論広告 陸軍トップといえる永田軍務局長の殺害は、軍部による政治支配確立の通過点となった。もとはといえば満州の関東軍は軍閥のような独立勢力となり、本国の政治を左右してきた。日露戦争で獲得した満…

荷風マイナス・ゼロ (22)

昭和10年(1935) 7月3日、東京市中の飲食店で店先にガラス棚をもうけ料理した飲食物を陳列し、一皿ごとに定価をつけるようになったのは大阪の洋食中華料理店からはじまった。三越やその他百貨店の食堂がこれに学び、いまや蕎麦屋汁粉屋までおよんだという。「…

荷風マイナス・ゼロ (21)

1935年ポスター 左が満州国、右が1928年までの中華民国国旗。 昭和10年(1935) 3月10日、「日露戦役紀年祭挙行の由。近隣の家人皆出払いて門巷かえって閑静なり。鶯終日啼く音を止めず。」大嫌いなラヂオもピアノも聞こえなかったのだろう。 「(新橋)芝口ガ…

荷風マイナス・ゼロ (20)

大音寺は南北にはしる昭和通り西側バス停前、一葉の駄菓子屋は茶屋町通りにあった。鷲神社の北隣が長国寺。 昭和9年(1934) 12月7日、「燈刻銀座に行く。二人の街娼に松屋の前にて袖ひかれしまま一丁目のオリンピックに入りて夕餉を食し、祝儀1円づつを與え、…

荷風マイナス・ゼロ (19)

長征 昭和6年(1931)、柳条湖爆破事件と満州事変からはじまった帝国の将棋倒しは、国際的には孤立しても国内ではまだ致命的効果は見えず荷風のモダン銀座生活もつづいている。 それは蒋介石の国民政府が安内攘外を戦略として、共産党の討滅と国内安定を優先し…

荷風マイナス・ゼロ (18)

銀座伊東屋 昭和9年(1934) 8月2日、新しく雇った下女の老婆が山の手の坂道におどろいて暇乞いして去ってしまった。(おそらく崖下の貧街から通っていたのだろう。) 8月3日、「近年銀座通には種々なる浮浪人無頼漢徘徊せり。衰世の状況推して知るべし。」 8…

荷風マイナス・ゼロ (17)

モダンガール 断腸亭日記7月26日記事に荷風によるモガの挿絵がある。 昭和9年(1934) 5月6日、「両三日前より桃山と名る西洋刻み煙草の模造品専売局より売り出しの由。その値90銭との事なり。」 5月8日、丸善に注文した洋書が送られてくる。中に La Cinématog…

荷風マイナス・ゼロ (16)

松屋浅草 昭和6年(1931) に東武線駅ビルとして開業した 昭和9年(1934) 3月5日、兜町の仲買店で依頼していた鐘紡、王子製紙の株をそれぞれ100株受け取る。 3月8日、銀座の牛肉店で夕飯にロース二人前1円50銭を食す。するとひとりの青年が乞食の子供二人を連れ…

荷風マイナス・ゼロ (15)

体育皇后 (1934) 小津安二郎の「非常線の女」(1933)は、モダン東京の風俗とからめつつハリウッドの暗黒街映画をなぞった作品だった。同監督の「大学は出たけれど」(1929)は昭和金融恐慌下の世相を喜劇として描き、どちらもモダニストとしての才気にあふれた…