荷風マイナス・ゼロ (30)

隅田川明治座近くの浜町公園あたりに、荷風の通った水練場があった。

 

荷風が東に向かったのは川の記憶があったからで、12才ころの夏は浜町に毎日通って泳いでいた。潮の干満にあわせ北は浅草、南は地図下に先端が見える佃島まで往復したと回想している。1879年生まれだから明治20年代のころの話だ。

江戸は武蔵野台地東の平野に位置し、丘陵末端の崖地から水が江戸湾に流れていた。さらに江戸城の外壕内濠造成、隅田川整備、埋め立て地の運河など開拓事業によって水都と呼べる環境ができあがった。

しかしそれは明治のおわりまでにはすっかり変わってしまった。荷風が日本の近代化を憎んだのは、そのような人と調和した水辺の光景を汚し破壊して都市が醜く開発されていったからだった。

 

 

 

荷風が「放水路」を書いた同じ昭和10年に、岡本かの子は短編渾沌未分で水練場教師一家の運命の変転を描いている。(これは川本三郎の「荷風の東京」で知った。)

 

「父の水泳場は父祖の代から隅田川岸に在った。それが都会の新文化の発展に追除けられ追除けられして竪川筋に移り、小名木川筋に移り、場末の横堀に移った。そしてとうとう砂村のこの材木置場の中に追い込まれた。転々した敗戦のあとが傷ましくずっと数えられる。」

 

地図左に浜町があり、堅川はいまの高速7号の下を流れる。そこを追われて南の小名木川に、さらに砂町商店街あたりの横堀へと水練場は移ることを余儀なくされた。小説のなかではそこから地図左下の荒川(戦前の名は放水路)葛西橋あたりが、現在の教え場となっている。

これは荷風が、水の原景をもとめて墨東をさまよった跡と一致している。渾沌未分の主人公である娘は、旧弊な父親に古流の泳ぎの天才として育てられた。しかし稼業は日々ほそくなるばかりで、水練場の支援者の妾になることを迫られている。これは原節子東京の女性(1939)と同じ筋立てで、原は職業婦人、産業戦士となることで運命をはねかえす設定になっていた。

 

明治30年代の水練事情は、木村荘八の随筆で知ることができる。