荷風マイナス・ゼロ (29)

隅田川と分水された荒川(当時の名称は単に放水路)

 

昭和11年(1936)ごろから荷風は、銀座に向かっていた足を東に延ばしていった。浅草墨東時代のはじまりだ。

理由はいくつか考えられるが、この時期に書いた放水路に当時の心境が示されている。

 

「四、五年来、わたくしが郊外を散行するのは、かつて『日和下駄』の一書を著した時のように、市街河川の美観を論述するのでもなく、また寺社墳墓を尋ねるためでもない。自分から造出す果敢い空想に身を打沈めたいためである。平生胸底に往来している感想に能く調和する風景を求めて、瞬間の慰藉にしたいためである。その何が故に、また何がためであるかは、問詰められても答えたくない。唯おりおり寂寞を追求して止まない一種の慾情を禁じ得ないのだというより外はない。
 この目的のためには市中において放水路の無人境ほど適当した処はない。」(1936年4月)

放水路とは岩淵水門から下流の今の荒川のことで、昔は荒川戸田川隅田川おなじひとつの流れの異称だった。

明治末年の大洪水を経て長く続いた工事が昭和5年に完成して以来、荷風はこの人工河川を訪れるようになった。当時もそうだったが、今でも殺風景な地だ。

 

銀座は新橋駅の開通から発展してきた地域で、ことに震災のあと浅草にとってかわって東京一繁華な街となった。しかし軍靴の音が高くなるにつれ手入れ規制が強化され、息苦しくなってきた。ことに荷風にとっていちばんの関心事である、街娼が自由に買えなくなった。

また銀座での交遊も心の負担になっていた。昭和10年10月号の文藝春秋永井荷風といふ男と題した暴露記事があらわれた。この文春砲は、古くからの知人で銀座でなじんできた作家の手になるものだった。荷風はただちに絶交したが、いつもたむろする喫茶店で姿を見かけると相手が立ち去るまで身をかくしていた。排除する腕力も政治力もなかったからだ。金をまいて徒党をやしなう作家もいるが、荷風はそういうタイプの人間でなかった。

 

新橋銀座は麻布の家から歩いてすぐのところだったが、昭和9年に地下鉄浅草新橋間が全通することによって飛躍的に行動範囲が広がった。市の中心地である銀座は衰勢に向かい、場末の浅草が大衆の盛り場として第一の地位をとりもどした。

また浅草をハブにして、江東墨田葛飾が自由に行き来できる地となった。市電や乗合自動車、川や運河を走る乗合ボートも有効に活用できるようになった。

浅草からは東武線で堀切、鐘ヶ淵、向島に、市電で千住、玉の井、亀戸へ、亀戸からは私営の城東電車で小松川、錦糸堀、洲崎へ足を運ぶことができた。洲崎からは銀座に市電がつながっていた。

 

2.26で意気消沈した荷風は、銀座に見切りをつけることで新しい生活を切り開いていくことになる。