荷風マイナス・ゼロ (28)

1927年円本ブーム時代の荷風

 

麻布の洋館に住み毎日銀座で外食し4-5日にいちどは街娼を買う、荷風がそんな生活をできたのは資産家だったからだった。財産の半分ちかくは親から相続したもので、さらにそれ以上をおもに昭和はじめの円本ブームで得ていた。

荷風の父は高級官吏から日本郵船に転じ、上海や横浜の支店長を歴任した。大正2年(1913)の死去に際しては、会社から1万円の功労金が出ている。父は市ヶ谷台に邸宅をかまえ、荷風は長男として家督相続した。

荷風は二度にわたって土地と屋敷を売却しているが、大正7年(1918)に残り半分を売った時には2万6千円を手にしている。

 

貨幣価値の換算はむずかしいが、樋口一葉の生きた明治20年代は1円=1万円で見積もると計算しやすい。そこから昭和14年(1939)は、1円=5千円くらいに下がっている。だから大正年間や昭和初期は、その中間あたりの時代と考えられる。

つまり荷風は現代の億の金をふところに入れることができた。さらに著述家として現役で、人気もあり稿料も高かった。その決定打となったのは昭和2年(1927)に改造社春陽堂がそれぞれ出した円本の荷風集で、これによって5万円以上の収入がもたらされた。円本の流行は全集ブームのさきがけとなったもので、中産階級が安価に書籍を購入することを可能にした。自著の大衆化によって文学者は、巨額の印税をみずからのものとすることができた。

 

このように荷風は昭和初期に富豪とはいえないまでも資産家となり、金利生活者としてブルジョア暮らしができるようになった。当然それは左右から、自由主義ブルジョアジーとして敵視される立場だった。しだいに銀座生活は、居心地がわるくなってきていた。