荷風マイナス・ゼロ (6)

朝ドラの二階堂ふみ

 

昭和7年(1932)

8月1日、いつもながら夜銀座に行くと、街角は刑事が厳重に警戒にあたっていた。時局攻撃の檄文をまいたものがいて、松屋店頭などで少なからぬ者が検束されたとの事だった。

昭和3年(1928)から共産党は徹底弾圧され、特高が本格的に始動した。それ以外の左派政党も、共産党への姿勢で分裂し抑えつけられていた。労働組合、農民運動も、離合集散し右傾化していた。世界恐慌と金解禁政策失敗による恐慌の下、失業率と争議件数は跳ね上がったが意思表示の道は閉ざされていた。一方で格差が生じ、銀座での華やかな消費生活も存在していた。

8月9日、「神楽坂夜店の人出も今年は例年より早く途絶えがちとなり、十一時過ぎには夜店も仕舞となる由。」

8月12日、隅田公園に友人らと出かけた。「公園の芝生には浮浪人野宿するもの多く、休茶屋には納涼の客少なからず、三囲橋の上には馳せちがう車の灯星の如し。」

8月17日、銀座の派出所に人が多くたかっているのでのぞきこむと、「女子に化けたる男この辺のカフェーに女給となりて住み込みいたること露見し、派出所より愛宕町の警察署に引かれ行くところなり。今の世の中はますますわけの分からぬ世の中とはなれり。」

 

9月3日、銀座表通りの夜市を見る。闘魚とよぶ鮒のような小魚を売っていた。たくさんの人が集まって小魚が噛みあうのを見て喜んでいた。「近年人心の殺伐となりたるはこれにても思い知らるるなり。」

9月11日、荷風は夏のはじめから不眠症に悩まされ、毎晩一睡もできない状態だった。この日は西銀座のブラジル珈琲店万茶亭で、路傍の樹の下に椅子をもちだし友人と四方山話で夜をふかしていた。服部時計店の鐘が12時を報せるまで居座った。「今日の銀座はかつて余が二三十年前に見たりし米国新開の都市のさまに異ならず。将来に在りてもまた永くかくの如くなるべし。欧州諸国の古き都会の雅致ある趣は到底わが国には見る事能わざるべし。」

9月12日、春陽堂から春陽文庫「新帰朝者日記」5千部印税48円を送ってくる。

9月16日、「隣家の人このごろ新たにラヂオを引きたりと見え」早朝から眠りを妨げられているが、天気予報で愚図ついた天気などという語を用いている。「愚図愚図しているという語はあれど、愚図ついているという事はかつて聞かざる所なり。・・いかにも下品にて耳ざわり悪しき俗語なり。」

9月20日、「街上にて偶然銀座会館の女給二三名に出会い芝口の佃茂という小料理屋に一酌す。女給の野卑下賤なるに・・呆れ返りて逃げ出せし奇事あり。」

 

10月1日、銀座では花電車が通過し人出がおびただしかった。商店の軒には大東京カアニバルと大文字が掲げられていた。この日、人口500万の大東京市が誕生した。

「それまでの十五区、人口二百万の旧市に荏原、豊多摩、南葛飾など五郡八十二町村を編入して三十五区に拡張、人口の点ではニューヨークに次ぐ世界第二の大都会となった。」(マイナス・ゼロ)

10月3日、銀座で夕刊を読むと府下町村の東京市への合併と満州外交問題の記事で紙面が埋まっていた。英国は世界いたるところに領地をもつが、わが国が満州占領の野心あるのを喜ばないのは奇怪なことだと荷風は書く。「弱肉は畢竟強者の食たるに過ぎず。国家は国家として悪をなさざれば立つこと難く一個人は一個人として罪悪をなさざれば生存する事能わざるなり。之を思えば人生は悲しむべきものなり。」

しかし、とつづける。「然れどもつらつら天地間の物象を見るに弱者の肉必ずしも強者の食ならず」猫とネズミ、鷹鷲と燕雀は住み分けているではないか「天地間の生物は各々其處を得て始めて安泰なり。弱肉必ずしも強者の食ならず。」

10月12日、銀座のラインゴールドはドイツ人経営で女給十四五名がいる。みなドイツ名をつけている(ポーラとかマリエとか)。酒価は日本人のカフェにくらべればはるかに安く、女給もあんがいおとなしく祝儀を貪らない。銀座あたりでは今のところもっとも居心地がいい、と記す。荷風は絵心があり日記にもあちこち挿画しているが、ラインゴールド女給たちは断髪オクトーバーフェストふうの衣装だ。通常のカフェは和服にエプロンが主流だった。

10月14日、春陽堂400円の小切手を持参。春陽堂とは支払いトラブルがあったので、このころ名がよく出る。

10月20日、ラインゴールドからの帰り、烏森から三人相乗りで麻布千駄木まで70銭だった。そこから世田谷区までもおなじ料金だった。

10月21日、銀座からの帰途、なじみの芝口のカフェー白夜の女給に会う。タクシーに相乗りして目黒まで送る。「カッフェー白夜といふは淫猥最もはなはだしきカフェーなれど、その女給カフェーを出て街上にて出会えば色気もそっけもなき裏店の女房なり。王侯の衣装鬘をぬぎ捨てたる俳優を見るが如し。」

10月22日、友人とラインゴールドで飲んだ後、女給のポーラを連れて烏森の寿司屋に入る。ポーラはもとは赤坂溜池の踊り場フロリダにいた。「踊り子の収入は多きもの月三百円、たいていは百二三十円。最小八九十円の由。毎月二度払いの由。」昭和8年師範学校卒教員の初任給は、46.3円

10月24日、ラインゴールド主人と立ち話。「欧州大戦前一二年頃のベルリンの空気は現時の東京とすこぶる相似たるものありきという。」主人は以前青島で商売をしていた。

10月27日、ラインゴールドにバンジョーをもったロシア人が来て、「酒は涙か」「女給生活さらりとやめて」など流行歌をたくみに歌う。ウラジオの人間で、6年前に来日したという。ラインゴールド主人によれば、元コサック兵だという。

 

このころの荷風は体調悪く、不眠で暑さもあり昼は「困臥」の生活がつづいた。しかし夜になると銀座に出かけ涼をとり、洋食と飲酒をつねとした。そして朝になれば腹痛に悩む。

もともと胃腸が弱いのに洋食にこだわったのは、医師のすすめからだった。実際荷風は枯れずに、戦時中も若々しい風貌を保った。

不規則な日常と重い食事、飲酒、暑さ、時局への不安などが健康をむしばんだのだろう。潰瘍の気配がある。