荷風マイナス・ゼロ (23)

「東京朝日新聞」1935年(昭和10年)7月20日中央公論広告

 

陸軍トップといえる永田軍務局長の殺害は、軍部による政治支配確立の通過点となった。もとはといえば満州関東軍軍閥のような独立勢力となり、本国の政治を左右してきた。日露戦争で獲得した満鉄の利権は初期癌のような病巣だったが、満州事変で中国本土に拡大する不治の病となった。

明治維新後の元老政治から、憲法制定によって政党に支えられた君主制への転換がはかられてきた。しかし憲政の期間は短命で、階級闘争の拡大、中国侵略と国際的孤立、世界恐慌などにより政治局面は混乱の道をたどった。

国政支配をねらう軍民の野心家たちは、陸軍海軍それぞれに思惑のちがいがあった。5.15は海軍将校を主体にしたテロだったが、その失敗後に陸軍が前面に出て来た。陸軍内部は皇道を旗印に先鋭化する中堅将校たちと、暴発を統制しようとするエリート将校に分かれていた。前者は皇道派、後者が統制派と呼ばれるがイデオロギーや目標手段に大きなちがいがあったわけではない。政党政治や財閥の腐敗に対し天皇を錦の御旗に、侵略と戦争のために軍拡しようとする点ではおなじだった。

1930年代はじめは皇道派が優勢だったが、失策がつづいて35年ころには統制派が人事を握るようになっていた。これへの不満が軍務局長暗殺をもたらしたが、さらに追いつめられた皇道派は2.26クーデターを画策するにいたる。

 

昭和9年(1935)

9月6日、当世風俗おぼえ書と題して「尾張町カッフェータイガ出来はじめの頃ニ三年間酷暑の頃にても洋服上着を脱ぎシャツの腕をまくり上げて酒を飲むもの稀なり。紙屑巻煙草吸殻等を卓子の下に捨てるものも少なかりき。昭和六七年満州戦争始まりし頃より風俗一般に粗暴野卑となり男は街上にても暑き時は洋服上着を脱ぎて小脇にかかえ帽子をかぶらず。」

銀座のふつうの飲食店に入ってもタバコの吸い殻を床に捨て、空いた椅子を引き寄せて泥靴のまま足をのせる者もいる。「三四十歳までの男大抵は両手を振り上半身をゆり動かして肩で風を切って歩くなり。」学生も制服のままおなじような歩きかたをしている。男が三、四人連れだって歩行するさまを見ると、多くはたがいに腰を抱きあいまたは肩へ手をかけあい大声で談笑する。街頭または飲食店で知人に出会うと西洋人風に握手する者が多い。握手の仕方はニューヨーク下町の無頼漢のやりかたに似ている。「これは活動写真より伝染せしものなるべし。」

女子の風俗を見ると、夏は洋服が涼しいといって5、6才から30前後まで安い洋服を着ない者はほとんどいない。4、5年前までは洋服で下駄をはき買い物に行く姿を見れば笑うものがいたが、今はこの奇風が一般になって怪しむものもいない。12、3の少女は家にいる時海水浴用の短かい衣一枚で両腕両腿を露出し、道端の腰掛に馬乗りになっているのを誰ひとり怪しむものもない。

9月15日、「銀座七丁目辺の歩道に陸軍軍人を優遇尊敬すべきことを筆太にかきたる大なる紙を背と胸にさげ頭にも同じようなことを書きし紙を頭巾の如くに冠りたる男一人立ちたり。」

9月16日、「神兵隊陰謀事件の号外出づ。」昭和8年(1933)に発覚したクーデター未遂事件。このときは公判中。1936年大部分は釈放され、41年に刑は免除となった。

9月17日、「美濃部博士憲法問題一時落着。」貴族院議員を辞職した。

9月20日、銀座の知人が「余が青年の頃の私行を書きつづりて文藝春秋の誌上に載す。」情事関係で文春砲をくらった。この知人とは絶交。

9月22日、「竹川町の花月この程金26万円にてカフェー銀座パレス主人榎本某の手に帰したりと云う。」

以下日記によると、竹川町は銀座7丁目で明治2、3年ころは紺屋の干場だった。そこにヨシズ張りの掛け茶屋を作り茶漬け飯屋をはじめた。諸藩の兵士が近くに集屯しているころだったので繁盛し、たちまち楼閣庭園を築造するにいたった。明治以降新橋花柳界の繁栄するにつれ長く都下第一の酒楼と称せられた。大正4、5年ころから借財が多くなり代替わりした。それでも商売はふるわず日本料理をやめて牛すきやき屋になった。

「昭和改元以来時勢の変遷に従い日々目のあたり世の無常を見ること挙げて数えがたし。当今の世は陰謀家と関西起業家等の暴威を振るう時代なり。」

9月25日、「俚諺にあつさ寒さも彼岸迄という事ありしが東京の気候年々険悪となり今は古き諺もやくには立たぬようになりぬ。諺のみならず学問道徳芸術をはじめ古人の言にして今の世に用をなすものはほとんど跡を断つに至れり。時勢と人心との変化是非もなき次第なり。」

 

10月5日、浅草の口入れ屋で家政婦の斡旋をしてきたので行くと、小遣いに困って泊まるところもないという美人を小声で紹介された。昨夜遊んだばかりだから今夜は都合が悪いといったん断った。「浅草の裏町ならでは聞かれぬ話なり。」

10月15日、「軍部対政府の国体問題今に至るもなお囂々たり。」美濃部天皇機関説弾劾のあとを受けて国体明徴声明が出され、機関説は国体に反すると国会で明言された。天皇親政、天皇ファシズムへの転換点だった。

婦人公論新聞広告の中に女性文化二十年と題するものあり。他日参考の資料となるべし。芳川鎌子の心中 松井須磨子の自殺 日向きむ子 貞奴 萬龍 白蓮女史家出 ヴァレンチノリリアンギッシュ、田村梶川の庭球時代 有島武郎波多野秋子心中 大杉栄の殺害 人見絹枝の活躍 寺尾姉妹 久野久子自殺 放送局出現 マネキン、ダンサー出現 九条武子 山田順子 藤原秋子 フェリシタバーセルメスと中野某 チャプリン来たる、サロン春女給里子 女給小夜子 三宅やす子 櫻内元子 エントツ男の出現 犬養首相殺害 坂田山心中 三原山と松本貴美子 鳥潟嬢結婚解消 月島小学校女教師久松とし夜間女給となり枕さがしをなす 児玉勝美 黒田雅子 増田富美子と西條えり子 ××元帥孫娘良子家出 文士島田清次郎と船木海軍少将娘」

10月21日、「人の噂によれば今春以来その筋の取り締まりきびしきため銀座通に辻君なくなり怪しげなるカフェーも閉店するもの多し。辻君は新橋を渡り片側汐留倉庫にて道路暗く人通りまれなるあたりに出没し露地または人家のあわいに客を引き込み春をひさぐという。」

10月23日、昭和3、4年ころまでタイガーで働いていたのぶ子という女給が訪ねてきた。「三四年前より伊太利亜大使の婢女となりその邸内に住むなりと云う。」夏は毎年鎌倉の大使別荘に行き、乗馬の稽古もするといって写真を見せた。

「タイガの女給数百人の中玉の輿に乗りたるものはこの女と赤組の光子二人なるべし。のぶ子は紫組に属したるなり。一人は伊太利亜大使の婢一人は白耳義公使館通訳官の婢となり。だいぶ貯金もできたる様子なり。」

10月25日、「電車にて浅草雷門に至り公園を散歩す。千束町を過る時この春一か月ばかり余が家に雇い置きたる派出婦に逢う。松竹座向かい側なる浅草ハウスというアパートに住めりという。誘わるるままにその室に至り茶を喫す。右隣の室はダンサア。左隣の室にはカフェーの女給。向かい側は娼妓上がりの妾にて夜十二時過ぎになれば壁越しに艶めかしき物音泣き声よく聞こゆと云う。」

公園裏から今戸日本堤吉原を散歩する。「京二不二楼となりの射的場には銀座に連れてきても恥ずかしからぬ美形あり。」

10月29日、「風静かなれば歩みて新大橋に至り船に乗って永代橋を過ぎ越前堀の岸に上る。」いまの新川のお岩稲荷に参拝する。「大正のはじめ頃この淫祠の門前筋向いの貸家にたしか荒川と言いし淫売宿あり。わかき後家人妻など多き時は七八人も集まりいたることありき。」

四谷のお岩稲荷は明治12年に火事となり、越前堀に引っ越した。四谷の方も復活している。

10月30日、「この頃新聞紙上の論文に欧禍という新文字を見る。非常時の語は満州事変の際、軍人の造り出せしもの。この度は欧禍の語となる。」