荷風マイナス・ゼロ (22)

 

昭和10年(1935)

7月3日、東京市中の飲食店で店先にガラス棚をもうけ料理した飲食物を陳列し、一皿ごとに定価をつけるようになったのは大阪の洋食中華料理店からはじまった。三越やその他百貨店の食堂がこれに学び、いまや蕎麦屋汁粉屋までおよんだという。「銀座通地震前には見ざりし奇習なり。」

7月6日、「文芸倶楽部の古本を読む。明治31年7月号の誌上に大町桂月楠木正成の自殺を論ずる文あり。」大町は忠義の見本に対し、やけを起こして死んだだけと切り捨てた。

「今日此の如き言論をなす者あらばたちまち危害を加えらるべし。明治30年代は今日に比すれば言論なお自由なりしを知るべし。」

しかし大町は、明治37年与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を「乱心なり賊子なり」とののしったことで名を残した。

7月10日、「この夜銀座表通りのみならず裏通りにも制服の学生泥酔放歌して歩むもの多く・・銀座は年と共にいよいよ厭うべき所となれり。」

7月22日、新富町の私娼のアパートを訪ねる。「西向き四階の部屋にて京橋より銀座通の夜景窓より一目に見渡さるるなり。六畳ばかりの畳敷きにて長火鉢茶箪笥鏡台などを置き、壁には肌襦袢浴衣などかけたるさま、建築の様式とまた窓外の景色に対して何等の調和もなし。おりおり廊下に下駄の音のきこゆるを窺い見れば、洋風寝衣をまといたる断髪の女の脛と腕とを露出し何やら物買いに出で行くなり。震災前新富町あたりには下町固有の風俗ありしが今日たまたまアパートの内部を見れば生活の外形には審美的興味をひくべきもの全くその跡を断ちたり。」嫌な客だ。

7月24日、路傍に辻説教する、汚れた浴衣の老人がいた。よく見ると震災のころまで偏奇館となりにいた牧師だった。「その頃にはこの宗旨もなお今日の如く衰微せず、救世軍の如きは太鼓叩き讃美歌をうたいて大通りを練り歩きたり。・・満州戦争起こりてより世の有様は一変し、街上にて基督教を説く者ほとんど跡を断ちたり。」

基督教は明治には、廃娼運動など近代化の窓口だった。

7月25日、「偶然ラヂオの放送鴎外先生の作山椒大夫浪花節につくり替えたるものを演奏するを耳にす。」鴎外は浪曲ぎらいだった。「今日浪花節は国粋芸術などと称せられ軍人及び愛国者に愛好せらるるといえど三四十年前までは東京にてはデロリン左衛門と呼び最下等なる大道芸に過ぎず、座敷にて聴くものにては非ざりしなり。」

 

8月2日、「美代子及びその情人渡辺生と烏森の芳中に会す。奇事百出。記すること能わざるを憾む。」以前3Pをこころみた相手。

8月6日、向島木母寺(梅若寺)に行く。明治の隅田川名所も染物工場石鹸製造所などがあって臭気がひどく、葦や荻が繁っていたところは、ごみで埋め立てられていた。白髭橋を渡って橋場に行くと、石炭を揚げる巨大な機械が立ち煙突が煤煙を吐いている。機械のかげに真崎稲荷や石浜神社が見えるのもあわれだった。工場の石炭が二三町にわたって積み上げられ、ガスタンクも見える。岸辺には汚く大きな達磨船が何艘もつながれ、裸体の人夫が徘徊している。二十数年前に散策したころの幽雅な風景はまったくその跡がなかった。

8月8日、「人の噂に昨夜西銀座サイセリヤという酒場の女給数人賭博犯にて挙げられしたりと云う。四五月以来カフェー及び酒場へ刑事入りこみ折々手入れをなす。」

このため銀座一二丁目裏通りに軒を連ねていたあやしげな酒場は、立ち行かず閉店するものもあった。「三四年前の景気今は全くなくなり表通りにも街娼の影少なくなりたり。」たしかに前年あたりから私娼に出会った、しけこんだなどの記述が見られなくなっている。

8月12日、「この日朝陸軍省内に刃傷あり。殺されたるは軍務局長永田少将殺したるは少佐某なりと云う。」