荷風マイナス・ゼロ (21)

1935年ポスター 左が満州国、右が1928年までの中華民国国旗。

昭和10年(1935)

3月10日、「日露戦役紀年祭挙行の由。近隣の家人皆出払いて門巷かえって閑静なり。鶯終日啼く音を止めず。」大嫌いなラヂオもピアノも聞こえなかったのだろう。

「(新橋)芝口ガード下の壁に美濃部博士糾弾排斥のビラ多く貼りてあり。」

明治22年(1889)に発布された大日本帝国憲法は、ドイツ帝国憲法を参考にしつつ明治天皇によって首相に下された欽定憲法の体裁をとっていた。これは東アジア初の近代憲法で、日本は立憲君主制の国家であることを国際的に表明するものだった。

ただ国の主権が天皇にあるのか、天皇は法人としての国家の一機関なのかは長く論争があった。国民主権は問題外だった。明治が終わり、君主の権限が制限される欧州式が力を得ていった。さらに第一次大戦の敗北でドイツ皇帝の戦争責任が問われることになると、天皇機関説が通説になった。

これに対し戦時下に権力の拡大をねらう軍部や右翼、神がかり勢力は天皇を旗印に機関説を標的にした。「不敬」がそのスローガンだった。なかでも貴族院議員の法学者美濃部達吉が主敵とされ、美濃部は2月25日の国会で弁明を余儀なくされ議員を辞職した。実際の標的は天皇側近の現実主義者グループ、「君側の奸」だったといわれている。

3月15日、「夜金春新道のキュペルにて、××元帥孫女良子家出の顛末を来合わせたる電報通信社社員某氏より伝聞す。」(××は東郷で、全集が編集時伏字にしたようだ。)

当人は学習院女子部卒業の間際に家出し、浅草公園活動館を見歩いたのち花川戸の喫茶店住み込み女給となった。この日新聞に家出記事が出るまで17日間働いた。店ではおさわりのたぐいもあったという。

その父は宮内省式部官で、明治40年坪内逍遥に弟子入りして俳優になろうとしたが許可されなかったとのこと。

 

4月5日、「美代子と逢うべき日なればその刻限に烏森の満佐子屋に往きて待つほどもなく美津子(ママ)はその同棲する情夫を伴いて来たれり。会社員とも見ゆる小男なり。美津子この男と余を左右に寝かし五体綿の如くなるまで淫楽に耽らんというなり。七時頃より九時過ぎまで遊び千疋屋に茶を喫して別れたり。」

4月6日、「日比谷の四辻にて花電車の過ぐるに出会う。雨中これを見る者垣の如し。」満州カイライ皇帝溥儀の来日を記念したもの。

4月9日、「小泉八雲の尺牘集を読む。八雲先生が日本の風土及び生活につきて興味を催したる所のものは余が帰朝当時の所感と共通する所多し。日本の空気中には深刻なる感激偉大なる幻想を催すべきものの存在せざる事を説きたる一文の如きは全く余の感想と符合するなり。」

4月14日、自費出版する「冬の蠅」の見積もりを出してみた。一部2円で千部出版の予定だった。印刷所支払い810円、収入見積もり1300円、差し引き収益が490円になれば上々との計算。実際は1105円44銭支払った。

4月15日、元帥の孫が女給になった一件は、新聞雑誌に書きたてることが禁止になったとのうわさ。

4月17日、ラフカディオ・ハーン全集を買う。18円。「余が少年時代の風景と人情とはハアンとロチ(ピエール)二家の著書中に細写せられたり。老後余はこの二大家の文を読みて余は既往の時代を追懐せんことを欲するなり。」

4月25日、銀座の知人のひとりが二十余年前の新橋での情事を「永井荷風情炎録」と題して雑誌実話に発表した。荷風知名度を利用しようとする試みは、これまで何度もあった。

4月27日、「冬の蠅」印刷所社長がもう千部増刷しようともちかける。荷風私家版は、稀覯本としても値が付いた。

 

5月2日、「帰途芝口ガード下を行き過ぎる時天皇機関説直輸入元一木喜徳郎を斬れという印刷ビラ貼りて在り。」一木は美濃部達吉の師で、この時枢密院議長。天皇側近グループのひとりだった。

5月10日、「暮れ近く鐘の声聞こゆ。東南の方より響き来るをもって芝山内の鐘なるを知る。飛行機自動車ラヂオ蓄音機などの響き絶え間もなき今の世に折々鐘の音を耳にする事を得るは何よりも嬉しきかぎりなり。・・わが身はさながら江戸時代のむかしに在るが如き心地す。今日の如き時勢に在りて安全に身を保たんとするには江戸時代の人の如く悟りと諦めとの観念を養わざるべからず。三縁山の鐘の音は余が心にこの事を告げ教えうるものなるべし。」

5月29日、ある人の話として、講談社社長野間清治王子製紙の副社長某を待合に招いた。講談社の使用する紙は、みな王子製紙から買い入れていた。野間は酒席での芸者の裸踊りを好みいろいろ踊らせたあと、副社長にも芸者とともに踊れと命じた。副社長は五十余歳の老人だったが、機嫌をとるため服を脱いで踊った。その場にいた老芸者は、気の毒になって涙を流したという。

 

6月5日、アーネスト・サトウの A diplomat in Japan を買う。18円。この年は、洋書の日本探訪記をあれこれ読んでいる。

6月9日、「黄昏銀座通モナミに飯す。三田稲門両校の書生各隊をなし泥酔放歌ややもすれば闘争せんとす。」

6月19日、先月ころから銀座通り新橋近くの道路を掃除する男がいる。黒の山高帽モーニングで、腕に帝都美化普及会と書いた布を巻き歩道などを掃いている。四十前後で人相もふつう、金銭をゆするわけでもない。「現代流行の愛国狂なるべし。」

6月25日、虎ノ門桜田町四辻に巡査が二三十人づつ四辻に立って警戒していた。二重橋下にも巡査五六人づつ芝生の向こうで立っていた。馬場先近い歩道の上に白衣を着た法華宗の信者七八人が、団扇太鼓をたたき二重橋の方に向かって読経していた。このような光景はニ三年来おりおり見るところ、と記す。