荷風マイナス・ゼロ (12)

昭和8年ころの銀座6丁目 松坂屋服部時計店が見える。

 

昭和8年(1933)

 

9月15日、「此の頃海軍軍法会議の事につき世論轟轟たり。」

5.15事件につき、首謀者3名に死刑求刑されたのが11日のことだった。結局11月に禁固刑が科せられた。

 

10月1日、「両三日来銀座界隈乞食子供の辻占売り花売りその他の物乞いその跡を絶ちたり。児童虐待防止令出でたるが故なりと云う。」

日記によれば児童花売り辻占売りのかせぎは、毎夜70銭から2円ちかくまでなるという。多くは柳島(江東区)や千住あたりから出てくるという。

10月3日、「医術研究のため解剖用の人間死体は一人の価70円が通相場なりと云。」

10月10日、「水天宮の妓窩に叶家を訪う。二階の一室に柳原伯爵私娼を招ぎ戯れ居るを窺い奇異の想いをなす。」

柳原は白蓮の兄、大正天皇のいとこ。荷風にはのぞき趣味があり、かつて愛人に待合を経営させていたときは壁に穴をあけ視姦することを楽しみとしていた。

10月17日、「麹町山王星ヶ岡の南麓に藤屋と呼ぶ広大なる旅館あり。部屋ごとに装飾に意匠を凝らし、或いは支那風或いは洋風、或いは数寄屋風につくりたり。普請の費用20万円なり。先年芝公園の紅葉館の如きものにて、顕官華族等の遊び場となり居れり。淫猥なる活動写真はおろかの事にて男女交合のさまを目撃せしむる催しをなす。されど此の旅館の女主人はもと新橋の妓にて貴族院議員加藤某の妾なるが故いまだ一度も警八風に襲われし事なし。出入りの客に政府の顕官多きを以て門外には憲兵巡査常に立番をなし居れり。されば、無頼漢志士の連中もここばかりはゆする事能わずと云。」

10月18日、洋装の女性が来て下女に置手紙を残して去った。見ると先年カフェ・タイガーで女給をしていたという。小説を書いたので見てもらいたいとの文言だった。その女性は昭和3年ころタイガーを去り、その隣の薬屋二階にジャポンというカフェを開いたと噂に聞いていた。

その夜水天宮の待合叶家に行き、女主人から当今の風俗事情を聞いた。震災後ニ三年は復興景気で、私娼の値段も一夜2-30円ほどだったがだんだん下落していまは高くて15円で並みは6-7円から10円とのこと。ただし娼婦の手に入るのはその半分。

以前は女たちは郡部に住むものが多く、またタクシーの便が悪かったので電報や速達で呼び寄せた。いまは市中のあちこちに二階借りし、家主の電話を利用するため夜も12時前ならすぐ間に合うようになった。宵の口から3-4軒かせぎ回る女もいる。素人の周旋宿は危険だから芸者の出入りする待合に頼んで稼ぐようになった。

以下、各町の私娼をあつかう待合の名が上げられる。陰間の事情も知る。

遊廓の娼伎は公娼で合法だが、私娼は非合法で検挙される可能性があった。このため手数料をとられるのを承知で、待合をかくれみのにした。

10月22日、この日早慶戦で銀座では両校の学生が泥酔して暴れた。元慶応教授の荷風は、こうなる前に早く辞めてよかったと記す。

荷風が辞職したのは大正5年(1916)で、大正15年から乱痴気ははじまった。もともと学生は、健全時代のカフェのお得意で銀座に出入りしていた。震災後は金のある中年のための風俗業となった。

 

斎藤美奈子「モダンガール論」によれば、女給の前職は多様で1位が家業や家事手伝いで半数。2位女中、3位裁縫。また「職業婦人」、つまり肉体労働者ではない層も1割ちかい。私娼の前職トップは女工だった。荷風日記では、私娼と女給のあいだを行き来する女性もいた。