荷風マイナス・ゼロ (33)

ベルリン・オリンピック

昭和11年(1936)

 

6月5日、「帰途杉野斎藤二氏及び女給満子と自動車に乗り霊南坂を登る。路傍の交番より巡査走り出で住所氏名を問い、満子女給たるをもって拘引せんとす。尋問十余分間しばらくにして逃るるを得たり。警吏の嫉妬恐るべきなり。」

6月11日、「銀座裏通りに散在する喫茶店酒場おでん屋等には、従前より乞食物売りの男女来たり客席の近くに進み寄り、押し売りをなすこと珍しからず。主人また女給などこれを制するも平然として去らざる故、客の迷惑を思い、主人はやむをえず身銭を切って追い払うこともあれど、毎夜毎夜十人以上も来る故、今日にては主人も女給も知らぬ顔をなして制せず。客もまた事情を知り同じく知らぬ顔をなし銭を與うるものなし。乞食も数年前よりは去年あたりよりはなはだしく風俗容貌悪しくなりたり。明暗教會という函を下げ、天蓋にて顔を隠せし尺八吹きいつか来ずなりて、今は蓬頭垢面の肖像画かきニ三名いづれも酒気を帯びて来る。乞食の中にて最も厭うべきものなり。おりおり出獄者なりと名乗りて凄味文句を並べるもあり。花売り辻占のあぶり出しを持ちたるものも見るから汚らしき田舎出の婆多くなりたり。七八歳の小児の花紙ハンケチなど売りつくるは以前と異ならず。その人数しだいに多くなりたり。声色つかい、薩摩琵琶、マンドリンひきその他いろいろあり。いづれも人相悪しく横風なり。」

6月27日、家の地所が94坪余あることがわかった。これを15年年賦で買うことにする。

 

7月2日、文藝春秋社の問い合わせ。「同社は昭和四年四月その雑誌文藝春秋の誌上において、はなはだしく余が事を誹謗したり。しかるに今日突然手紙にて同社営業の一部とも云うべき事を問い合わせ来たる。何の意なるや解すべからず。文藝春秋の余に対する誹謗の文には左の如きものあり。一今日荷風の如き生活をしている事は幸福な事でも許すべき事でもない。かくの如く社会に対して冷笑を抱いてい、社会に対して正義感を燃焼させないとしたなら当然社会は彼を葬ってもいい。一今日かくの如き社会において財産を唯一の楯として勝手に振舞うという事は許すべからざる卑怯である。」

7月3日、「行くところもなければ浅草公園に行く。」

伝法院裏門から池のほとりに並んだ露店の中、人がことさら多く集まるのは八ツ目鰻のつけ焼きと姓名判断の冊子を売るところだ。木馬館のきわに演説して人を集めている男に歩み寄って聞くと、かつてこの公園でジャンヌ・ダルクとあだ名された不良少女がいたという。今は丸の内の会社でタイピストとなり、夜ごと帝国ホテルに客をくわえこみ、月々千円あまりの稼ぎをしているという。この女は新聞記者を買収したために検挙されたが、一度も新聞紙上に出たことがないと噛みつくような調子だ。何か印刷物を売りつけているようだった。

夕刊新聞に相澤中佐死刑の記事があった。(永田軍務局長暗殺)

7月7日、二月二六日叛乱軍将卒判決の報出ず。

7月11日、「流行唄忘れちゃいやよと題するもの蓄音機円盤販売禁止。また右の歌うたう時は巡査注意する由。」

7月12日、「叛軍士官代々木原ニテ死刑執行ノ報出ズ」

7月15日、「杉野教授斎藤某の二氏一美人を伴い来るに会う。十年前サイセリヤのお京といい銀座の裏町に嬌名を馳せたるものなり。この頃銀座六丁目東京茶房の女給になりしと云う。」

7月19日、「銀座にて知人よりカフェー取締規則なるもの一冊借る。」社交舞踏してはいけない、客引きしてはいけない、店頭や街頭に立ち徘徊しない、客と同伴外出してはいけない、歌舞音曲、食券招待券だめ、客を宿泊させない、異様な服装、卑猥な行為だめなど。従業婦は一坪に一人。

7月20日、「今日より二十四日まで毎夜点灯を禁ぜられる。・・黄色の制服着たるもの手丸提灯をたずさえ、三四人づつ一組になり、人家の二階などに灯影見ゆる時は大声に明るいぞ明るいぞと呼び立つるなり。電車にて浅草に至りそれより円タクを請い、玉の井を見歩き、銀座に出ず。劇場活動小屋は八時ごろに戸を閉ざしたりと云う。朝鮮人暗夜に乗じ暴動を起こすやの流言しきりなり。」

7月21日、強制滅燈の二日目で街は暗い。銀座の喫茶店店内は明かりをつけていた。大きな物音に驚いて見ると、自動車が店頭の水がめに突っこんでいた。運転は島田に結った芸者で、毎夜みずから運転して待合を往来するという。

 

8月15日、「この夜オリンピック(ベルリン)の放送十二時ころより十二時半に至る。銀座通のカフェーおよび喫茶店これがためにいづこも客多し。」

8月19日、「夜銀座食堂に飯す。蓄音機店の前に男女蝟集し、流行唄とんがらがっちゃだめよまた日本よい国などいうを傾聴す。」

8月20日、「商店の若者猿股一枚の裸体にて路傍に出で、縄跳びの練習をなすを見たり。スポーツの流行驚くべし。」

8月25日、「夕餉の後あまりに暑ければ電車に乗り、行き先定めず涼風を追う。」

8月29日、寄贈雑誌リスト オール演藝 文藝時報 文藝懇話会 新聞解剖 日本記録 禿鷹 星雲 海 劇と評論 演劇新論 観音 名古屋観音儋仰会 俳句新聞 日本とアメリカ 文藝汎論 学燈 文藝読本 人民文庫 日暦 阿房 文学案内 中央公論 改造 日本評論 

「大概封緘のまま屑屋に売る雑誌」