荷風マイナス・ゼロ (34)

玉の井は現在の東向島5丁目あたり。空襲で消滅し、いまは痕跡もない。

 

昭和11年(1936)

 

9月7日、暑いので夜隅田公園を散歩した。芝生、腰掛、池のほとりなど所を選ばずほとんど裸体にひとしい不体裁な身なりの男が大の字なりに横臥しているのを見る。これは不良の無宿人ではない。散歩の人でなければ近所の若い者なのだろう。女を連れ歩んでいるものも少なくない。およそ東京市内の公園は夏になればどこもみなこのようで、紙くずとバナナの皮とが散らばったなかに汚れたシャツ一枚の男が横臥睡眠しているのを見るのである。

言問橋を渡り乗合自動車で玉の井にいたる。今年三四月のころからこの町のさまを観察しようと思いたって、おりおり来て見る中にふと一軒休むのに便利な家を見出すことが出来た。その家には女ひとり居るだけで抱え主らしいものの姿も見えず、下女も初めのころはいたが一人二人と出替わりして今は誰もいない。

女はもと洲崎の某楼の娼妓だったという。年は二十四五。上州あたりの訛りがあるが丸顔で眼大きく口元の締まった容貌、こんなところで稼がずともと思われるほどだ。あまりしつこく祝儀をねだらず万事鷹揚なところがあるので、大籬の花魁だったというのもまんざら嘘ではないだろう。わたしはこの道の女には心安くなる方法をよく知っているので、訪ねるときはかならず雷門あたりで手軽なみやげものを買ってたずさえていく。

この夜わたしは階下の茶の間にすわり長火鉢によりかかって煙草をくゆらし、女は店口の小窓にすわったまま中仕切りの暖簾をへだてて話をするうち、女はたちまち通りがかりの客を呼び止め、二階へ案内した。

しばらくして女は降りてきて「外出だからあなた用事がなければ一時間留守番してください」といいながら、着物を脱ぎ捨て箪笥の引き出しから何やらまがい物の明石の単衣を取り出して着替えるので、いったいどこへ行くのだと問うと、どこだかわからないけれど多分向島の待合か円宿だろう。一時間外出は十五円だよ。お客ほど気の知れないものはない。あなたなら十円にまけるから今度連れてってと言うのも呼吸せわしく、半帯しめかけながら二階へ上って、客とともに降りてくるのをそっとうかがい見ると、白ズボンに黒服の男、町の小商人でなければ会社の集金人などによく見る顔立ちだった。

女は揚げ板の下から新聞紙につつんだ草履を出し、一歩先に出てください。左角にポストがあるからと、そっとわたしの方を振り向き、めくばせして留守を頼みいそいそとして出ていった。

一時間とは言ってもことによれば二時間過ぎるかもしれない臨時の留守番。さすがのわたしも少し途方にくれ柱時計を眺めれば、まだ九時を打ったばかりなのにやや安心して腰をすえ、退屈まぎれに箪笥戸棚などの中を調べて見た。女は十時を打つとまもなく思いのほかに早く帰ってきた。行った先の様子を聞くと、向島の待合へ連れて行かれたが初めから手はずがしてあった様子で「ノゾキ」の相手に使われたものらしく、ひょっとすると写真に写されたかもしれない。通りがかりの初会できれいに十五円出すとはあんまり気前がよすぎると思いましたと語りながら、女は帯の間から紙幣を取り出し、電燈の光に透かして真偽をたしかめた後、猫板の上に造りつけた銭箱の中に入れた。はや十一時ちかくになったのでまた来るよといってわたしは外に出た。

女の名はさだかでない。自分では秋田の生まれというが、ほんとかどうかわからない。常州下館の芸妓だったことはあるようだ。

9月10日、「夜また玉の井視察。」この月は13回行った記録がある。

9月13日、「晩飯すまして後隅田公園に往く。震災後変わり果てたる浅草の町を材料となし一編の小説をつくりたしと思うなり。言問橋をわたり秋葉裏の色町を歩み玉の井に至り、いつも憩む家に立ち寄るに、女は扁桃腺を病みて下座敷の暗き中に古蚊帳つりて伏しいたり。十一時ころまで語りてかえる。蚊の声聞くもむかしめきてまたおもむきあり。」(蚊は玉の井名物)

9月15日、旧藩主の娘たちが私娼になったという話を聞いたが真偽は不明。

「夜玉の井に往く。・・いつもの家にて女どもと白玉を食す。一碗三十銭とは高価驚くべし。この夜女は根下がりの丸髷に赤き手柄をかけ、晒木綿の肌襦袢に短き腰巻の赤きをしめたり。この風俗余をして明治四十年代のむかしを思い起こさしめたり。ただしそのころには暑中赤き手柄や真っ赤な湯もじを用いるものは素人にもなかりき。根下がりの丸髷、総髪の銀杏返しは仇っぽく見えてよきものなり。秋の蚊の群れ来たるを破れ団扇にてぱたぱたと叩く響きもまたむかしを思い返すよすがなり。」(手柄は髷にかけたひも)

9月20日、「今宵もまた玉の井の女を訪う。この町を背景となす小説の腹案ようやく成るを得たり。」

9月22日、「土手の下の南方に立派なる屋敷ニ三軒石の塀を連ねたり。これ噂に聞きし玉の井娼家主人の住宅にて玉の井御殿と呼ばるるものなるべし。」

9月23日、朝日新聞に小説寄稿を求められて。「余は菊池寛を始めとして文壇に敵多き身なれば、拙稿を新聞に連載せんか、排撃の声一時に湧き起りかならず掲載中止の厄に遭うべし。余はまた年々民衆一般の趣味および社会の情勢をうかがい、今は拙稿を公表すべき時代にあらざると思えるなり。」

9月26日、「不動産所得の税259円97銭を郵便局に支払う。」

9月27日、「初更玉の井に往き彼の家を訪うに店の小窓閉ざしありて女の顔見えず。戸を叩き見るにしばらくして女奥より出で二階に案内し、ただいま主人と前借金の事につきいざこざ起こり話の模様にては一時商売を止めるかも知れず、明晩お出下されたし、その節この家の灯が消えていましたらそっと隣の家の富子という女にお聞きなされてください、わたしの居所を知らしておきますからと云う。」

 

10月1日、「夜銀座に出で食料品を購い玉の井に往きいつもの家に憩う。途上電車向島終点に花電車の停留するに会う。見るもの垣をなす。市設電車二十五年の記念なりと云う。」

10月4日、「薄暮夕餉を食さんとて銀座に行く。日曜日にて雑衆はなはだし。去って濹東陋巷の女を訪う。帰途車にて大川端を過ぐ。半月本所の岸にあり。」

10月5日、「銀座にて買い物をなし玉の井に立ち寄りてかえる。夜気冷ややかになりて炎暑の夜の如き勇気も今は消磨したれば、かの女を訪うも今宵をかぎりにせんかなど思いわずらうことしきりなり。」

10月6日、「洋傘をたずさえ浅草に行く。白髭橋をわたり木母寺を訪う。・・白髭橋東畔より京成バスに乗りて玉の井なるいつもの家を訪う。日は早く暮れたり。家には三ツ輪のようなる髷結いし二十一二才の女あらたに来たり、また雇い婆も来たり。茶の間にて夕餉を食し居たり。主人も来たりたればこの土地のはなしききて、七時ころ車にて銀座に行き銀座食堂に飯して麻布にかえる。」

10月7日、「終日執筆。命名して濹東奇譚となす。」

10月15日、「夜また玉の井を歩む。京成電車線路跡の空き地に薬を売るものあり。古新聞紙を頭の上にしばりつけ火を点じやけどの薬の効能を説く。新聞紙は水にてしめしあるにや燃るかと思う中消ゆること五六回。そのたびに薬を売りつけるなり。」

10月21日、「銀座裏通の看板におうさかりようり(おほさかれうりト書クベキモノ)かほる(かをるノアヤマリ)など書きたるを見る。否定の意「ず」とあるべきを「づ」となしたるは写真画報の解説なり。許さづあるいは見づなど書きたるなり。日本語および文字の行く末はいかになり行くにや。」

10月25日、「濹東奇譚脱稿。」

10月26日、「写真機を買う。金百四円なり。」

10月28日、「拙稿濹東奇譚を朝日新聞夕刊紙上に掲載する事となす。」

10月31日、郵便で原稿を送った。「夜月明らかなり。濹東を歩む。毎月の晦朔両日は浅草より玉の井あたり最もにぎやかなりと云う。この夜雷門仲見世のあたり大いに雑衆す。吾妻橋を渡るに水煙模糊として両岸の燈火を籠め眺望すこぶる佳なり。・・

夜八時ころ銀座三丁目裏にて慶応の生徒一名早稲田生徒のために致死の傷をこうむりしと云う。」