荷風マイナス・ゼロ (18)

 

 

銀座伊東屋

 

 

昭和9年(1934)

8月2日、新しく雇った下女の老婆が山の手の坂道におどろいて暇乞いして去ってしまった。(おそらく崖下の貧街から通っていたのだろう。)

8月3日、「近年銀座通には種々なる浮浪人無頼漢徘徊せり。衰世の状況推して知るべし。」

8月4日、「風月堂の鱸魚のふらい味佳し。蓋し立秋の節近きが故なるべし。・・十時頃家にかえる。炎熱日中に異ならず。深更始めて蝉の鳴きいづるを聞く。」

8月10日、上海発行の傳中濤「日本明治文学中之自然主義」(1934)に荷風の名があったと知らされる。「這般地他們在主観的憧憬中、以図忘却現実之悲哀。抱月遂転倒演劇運動方面去、岩野泡鳴亦断然往象徴主義去、明治末年的文壇乃由自然主義転倒夏目漱石俳諧的情趣、永井荷風的唯美主義的方面去了。」

8月15日、知人たちが伊東屋(銀座三丁目百貨店)のエレベーターガールを連れていたので、いっしょにオリンピックに行って洋梨を食べた。

8月20日、銀座で知人に、自分の10倍の原稿料をとっているのだからご馳走してくれといわれる。(荷風は割り勘主義。)

8月25日、故上田敏妻の紹介状をもって物集芳子という女性が「探偵小説を出版するので序文を書いてほしい」と訪ねてきた。以下その序文。

「わたくしはこの書の著者のいかなる人であるかを知らない。著者はわたくしの畏敬する一友人の紹介状を携えてわたくしを訪問せられた。そして既に印刷に取りかかっている此の書を示して、わたくしの序文を需められた。わたくしの友はどういうわけで此の著者をわたくしに紹介したのかそれはわたくしの知るところでない。著者はまたどういうわけで、私に序を求められるのか、それも亦わたくしの知り得ぬところである。わたくしはその著者をも知らず、またその著作も知らない書物について、その序をつくるべき道を知らないと答えて辞退した。しかし著者はこれを許さない。やむことを得ずわたくしはここに無用の数語を捻出した。著者はこのような無用の序詞を取ってその著書の初に載せられるや否や、わたくしはこれを知らない。わたくしは唯わたくしのいかに困却したかを記して申し訳にするのである。荷風老人。」

いしいひさいちの描く広岡先生を思い出させる。物集は高名な学者一家の人。1935年、日本初の女性探偵小説家となった。この序文?には怒っている。

 

9月1日、「午後より防空演習とやらにて市中騒然たり。・・銀座通は雨中に係わらず演習見物の男女絡繹たり。八時頃より家々燈火を滅す。・・演習の騒音終夜止まず。」

9月3日、伊東屋百貨店開催の蘭展覧会を見る。「一鉢千500円ほどのものあり。一驚すべし。」

9月5日、「銀座に往かんとするに電車従業員同盟罷業をなしたる由臨時雇の運転手電車を運転せり。」

9月8日、「読売新聞記者某来たりしが会わず。」来客にはほぼ居留守を使っていた。

9月16日、三越開催の文芸家遺品展覧会に三遊亭円朝のものを出すというので、泉鏡花は落語家と同列に陳列できないと出品を拒絶したと聞いて。「鏡花氏の偏狭寧笑うべし。」円朝は言文一致体、鏡花は雅俗折衷体の大家。荷風は屏風を提供した。

「電車従業員同盟罷業今日限り一時中止となる。」

9月26日、銀座通りの歩道は赤レンガ敷きだったが、地下鉄開通後セメント敷きにするというので「道普請最中、泥濘はなはだし。」

9月30日、「東北地方一帯凶作にて西瓜の如き果物甘味というものほとんど無かりしと云う。」

「余清元のみならず江戸の音曲を耳にせざること早くも十余年とはなれり。震災以後西洋の音楽もまたさして聞きたしとも思わずなりぬ。早朝より夜九時過ぎまで毎日到る所ラヂオの放送に耳をおおう身にはいかなる名曲もきく心にはならぬなり。」