荷風マイナス・ゼロ (16)

松屋浅草 昭和6年(1931) に東武線駅ビルとして開業した

 

昭和9年(1934)

3月5日、兜町の仲買店で依頼していた鐘紡、王子製紙の株をそれぞれ100株受け取る。

3月8日、銀座の牛肉店で夕飯にロース二人前1円50銭を食す。するとひとりの青年が乞食の子供二人を連れて突然入店し、牛鍋を注文した。青年は洋服で頭髪を乱し、雑誌記者かエセ社会主義者と思われた。店員と青年は高声で押し問答をしていたがボロ着の子供たちは逃げ出し、男もやがて立ち去った。「何の事かわからず。近頃の世の中は何事にかぎらず常識にては解し難きこと多し。」

3月16日、「午後浅草に往き松屋百貨店の屋上に登る。人のはなしに晴れたる日には鴻の臺(国府台)の森もよく見ゆる由なれど、余のここに来る時は空いつもくもりて近くの亀井戸あたりかと思わるるガスタンクさえ朦朧として影の如し。此の日も空には雲多く煤煙濛々として眺望を恣にすること能わず。隅田川の水も鐘ヶ淵あたりより川上は物に遮られたり。五時過雷門に出で始めて地下鉄道に乗り銀座尾張町に至る。十五分間なり。」

銀座線は昭和2年(1927)に浅草上野間が東洋初の地下鉄として開通し、昭和9年5月に新橋まで延伸した。荷風の初乗り時は、銀座終点だったのだろう。のちの浅草時代がはじまったのは、地下鉄のおかげでもあるようだ。

3月17日、風紀引き締めキャンペーンの一環だったのだろうが「此の日引きつづき賭博犯の嫌疑にて菊池寛其の他文士数名及び活動女優両三名警視庁へ呼び出されしと云う。東京日日新聞菊池寛三万円の株主なるの故を以て拘引者人名の中に菊池の名を除きて掲載せざりしと云う。新聞社の陋劣なること此の一事を以て其の全般を推知すべし。」

荷風は何年かまえに文藝春秋記事で「この世にいてはいけない存在」と罵られたことがあった。この仇敵への逆文春砲は、さぞ気持ちよかったことだろう。

 

4月6日、「正午洋服屋洋服の仮縫いに来る背広代金90円也。・・銀座に往き食料品を購い千疋屋に飯して帰る。銀座通両側の歩道半町ほどづつ赤き鳥居を立て柳まつりの旗提灯を出したり。道路もカッフェーの飾り付けと同じく年々俗悪野卑となる。今は趣味を論ずべき世に非ざる故唯見る所を記し置くのみ。」

4月11日、夕刻銀座にゆく。「松屋百貨店店頭に楠新田名和其の他の武者人形を飾りたり。明治二十年頃、楓湖芳年等好んで建武年間の武者絵を描きし事あり。今日の時勢に在りては此等の画人も宜しく贈位すべきものなるべし。」

4月26日、「此の日暴漢朝日新聞社に乱入し社員三四名を傷けたりと云う。余現代の世相を観て事に感ずる毎に、韓非子が威強の章を想い起こすなり。其の文に曰く人臣タル者帯剣ノ客ヲ集メ、必死ノ士ヲ養ヒ、以テ其威ヲ彰シ、己ガ為ニスル者ハ必利シ、己ガ為ニセザル者ハ必ズ死スルコトヲ明ニシ、以テ其群臣百姓ヲ恐レテ其私ヲ行フ。此ヲ之レ威強ト謂フ。」