荷風マイナス・ゼロ (26)

2.26 部隊の動き wiki

 

昭和11年(1936)

2月1日、銀座喫茶店キュペルで、「隣席に二人の客あり。泥酔放歌傍人の迷惑を顧みず往々猥褻なる言語を発す。その去りたる後茶店の主人に問うに一人は内山幼稚園の教師、一人は三田魚籃寺の住職なりと云う。風教の退廃実に驚くべし。」

2月5日、昨日からの雪で電車の通行がまれになり、乗合自動車もことごとく満員で乗れない。円タクの乗車賃はニ三倍高くなる。昨夜芝居見物の客は歌舞伎座はじめどこも桟敷廊下などに宿泊したという。

2月13日、「鴎外先生の女杏奴その著晩年の父一巻を贈らる。」

2月14日、「この頃新聞の紙上におりおり相澤中佐軍法会議審判の記事あり。相澤は去年陸軍省内にてその上官某中将を斬りし者なり。・・相澤の思想行動は現代の人とは思われず、全然幕末の浪士なり・・西洋にも政治に関し憤怒して大統領を殺せしもの少なからず、然れども日本の浪士とは根本において異なる所あり。余は昭和六七年来の世情を見て基督教と儒教の文明との相違を知ることを得たり。浪士は神道を口にすれどもその行動は儒教の誤解より起こり来たれる所多し。そはともあれ日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり。政党の腐敗も軍人の暴行もこれを要するに一般国民の自覚に乏しきに起因するなり。個人の覚醒せざるがために起こることなり。然り而して個人の覚醒は将来においてもこれは到底望むべからざる事なるべし。」荷風に社会科学の素養はないが、これは凡庸な生徒会長の言だ。個人の覚醒。

2月19日、「明治年間の劇場 四谷荒木町桐座 芝盛元元座(ママ) 神田三崎町三崎座 同東京座 同川上座 中州真砂座 深川仲町深川座 浅草公園常磐座 同宮戸座 麻布十番 座(ママ) 本郷春木座 新富町新富座守田座) 木挽町歌舞伎座 下谷二長町市村座 下谷三味線堀柳盛座 駒形 七軒町開盛座 」ほかに南鞘町澤村座、芝埋堀河原崎座、蠣殻町中嶋座、村松町喜昇座、本郷春木町奥田座があげられている。

2月21日、「美濃部博士凶漢に襲わる幸いにして傷は軽し凶漢はその場に捕らわると云う。」

2月23日、「目覚めて窓外を見るに雪紛々として降りしきる。」家を出ると門前の小径は積雪で編上靴が没してしまう。坂を下ると電車は停留し自動車も行き悩んでいる。青バスに乗ると乗客は一人のみ、女車掌に今夜は何時まで運行するかと聞けば今のところ指令はないという。

2月24日、「空再び曇りて風寒し」銀座に行こうとするが面倒で家に留まる。「老懶とは誠にかくの如き生活をいうなるべし。芸術の制作欲は肉欲と同じきものの如し。肉欲老年に及びて薄弱となるに従い芸術の欲もまたさめ行くは当然の事ならん。余去年の六七月ころより色欲頓挫したる事を感じ出したり。」そのころ24、5の女に月々50円与えていたが「この女稀代の淫婦にてその情夫と共にわが家にも来たり、また余が指定する待合にも夫婦にて出掛け秘儀を演じて見せしこともたびたびなりき。初めの程三四度は物めづらしく淫情を挑発せらるることありしが、それにも飽きていつか逢うことも打ち絶えたり。去月二十四日の夜わが家に連れ来たりし女とは、身の上ばなしの哀れなるにやや興味を引きしが、これ恐らくはわが生涯にて閨中の快楽をほしいままにせし最終の女なるべし。色欲消磨しつくせば人の最後は遠からざるなり。依ってここに終焉の時の事をしるし置かんとす。」

荷風は遺言めいたものを書く。内容は1.葬式無用、死体は普通自動車で火葬場に送り骨は拾わないこと、墓石無用 2.理由は霊柩車造花花輪が嫌いだから 3.財産はフランスアカデミーに寄付 4.自分は日本の文学者が蛇蝎のごとく嫌いだ 5.死後の著作に関することは親友の(抹消)に一任する 6.「余の全集及びその他の著作が中央公論社の如き馬鹿々々しき広告文を出す書店より発行せらるることを恥辱と思うものなり」 7.三菱銀行本店に定期預金2万5千円あるので、その金で著作全集を発行し同好の士に配布したい 夜も更けたので遺書草案はここまでで止める。

2月25日、「銀座通を歩む。銀座通の人のゆききと蓄音機の俗謡と貧しげなる建築物とはいかにも浅薄なる現代的空気をつくりなしたり。夜となりて燈火かがやき汚らしき商店の建物目に立たぬ頃に至れば銀座通は浅草公園仲店の賑わいを呈するなり。いづれにしてもこれが東京一の繁華なる町とは思われぬなり。」

「新橋停車場前に去年の暮れより仏蘭西料理屋開店せし由聞きたれば立ち寄りて晩餐を命ず。一人前2円ぶどう酒50銭肉汁あしからず葡萄酒また良し。」

2月26日、「朝九時ごろより灰の如きこまかき雪降り来たり見る見る中に積もり行くなり。午後二時頃歌川氏電話をかけ来たり。軍人警視庁を襲い同時に朝日新聞社日日新聞社等を襲撃したり。各省大臣官舎及び三井邸宅等には兵士出動して護衛をなす。ラヂオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりはただ降りしきる雪に埋もれ平日よりも物音なく豆腐屋のラッパの声のみ物哀れに聞こえるのみ。市中騒擾の光景を見に行きたくは思えど降雪と寒気をおそれ門を出ず。風呂焚きて浴す。九時頃新聞号外出づ。岡田斎藤殺され高橋重傷鈴木侍従長また重傷せし由。」

2月27日、「午後市中の光景を見んとて門を出づ。東久邇宮門前に憲兵三四名立つ。・・溜池より虎ノ門のあたり野次馬続々として歩行す。海軍省及び裁判所警視庁等みな門を閉じ兵卒これを守れり。桜田その他内曲輪へは人を入れず。堀端は見物人垣をなす。銀座尾張町四辻にも兵士立ちたり。朝日新聞社は昨朝九時頃襲撃せられたる由なれど人死には無之。印刷機を壊されしのみなりと云う。銀座通の人出平日よりも多し。電車自動車通行自由なり。・・八時過ぎ外に出るに銀座通の夜店遊歩の人出いよいよ賑やかなり。顔なじみの街娼一両人に逢う。山下橋より内幸町を歩む。勧業銀行仁壽公堂大坂ビルみな鎮撫軍の駐屯所となる。田村町四辻に兵士機関銃を据えたり。甲府より来たりし兵士なりと云う。議会の周囲を一まわりせしが、さして面白き事なく野次馬のぞろぞろと歩めるのみ。虎ノ門あたりの商店平日は夜十時前に戸を閉ざすに今宵は人出賑やかなるためみな燈火を点じたれば金毘羅の縁日の如し。・・この日新聞紙には暴動の記事なし。」

2月28日、「朝来雪また降り来たる。午後銀座に往く。霞が関日比谷虎ノ門あたり一帯に通行止めなり。叛軍は工事中の議事堂を本営となせる由。」

2月29日、「午後門を出るに(麻布)市兵衛町表通り往来止めなり。・・歩みて神谷町から宇田川町を過ぎ銀座に至り・・四時過ぎより市中一帯通行自由となる。・・叛軍帰順の報あり。また岡田死せずとの報あり。」

 

3月11日、「初めて春らしき暖かさなり。午後食料品を買わんとて銀座に行くに何ということもなきに人出おびただし。田舎より出で来たりし人も多し。過日軍人騒乱の事ありしためその跡を見んとするものも多き様子なり。塵まみれの古洋服にゴムの長靴を穿ち、薄髭を生やし陰険なる眼付したるもの日比谷のあたりにはことに多し。その容貌とその風采とは明治年間の政党の壮士とも異なり一種特別のものなり。」

3月14日、銀座の喫茶店に行く。「一客あり。二月二十六日兵乱の写真十数葉携え来たりて示す。叛軍の旗には尊皇討姦と大書したり。」

3月15日、「晩食後浅草公園散歩。松竹座筋向いに国際劇場建築場と書きたる板囲いできたり。この夜日曜日の故にや人出おびただしく広小路にも夜店立ちつづきたり。雷門のあたりに佇みて往復する乗合自動車の乗客を見るに、銀座新橋方面へかえり往く人は少なく、吾妻橋向へ行く車はいづれも満員なり。地下鉄道に乗るに銀座に至るまで乗客数うるばかりなり。浅草公園の景況推して知るべし。」

3月17日、毎朝ウグイスの声を聞くが、市兵衛町崖地の樹木竹林は年々少なく雀もまれな汚い町になったのにウグイスだけ来るのはなぜかと問う。「我が身のいやいやながら東京に住み、日々散歩すべき所なきまま銀座に往く境涯に似たりというべし。」

この日は午後3時に家を出て、浅草から東武電車で初めて西新井大師まで行った。車窓に見る田園の風景ははなはだ良かった。南千住行きの乗合自動車に乗り放水路を走り、西新井橋を渡った。橋の北詰めに三四本煙突がそびえる建物があった(お化け煙突)。北千住から千住大橋を渡り小塚原で終点となった。銀座行きの市電に乗り換え、尾張町で服部時計を見れば6時だった。渋滞がないので交通がはかどっている。

3月19日、知人が憲兵隊に寝込みを襲われ本部に連れて行かれた。「印度の人サバロアル氏の交友範囲につきて尋問せられし由を語る。サ氏は軍人暴動の事起こりしころ国事探偵の嫌疑を受け憲兵隊本部に留置せられ今なお放免せられざる由なり。」

3月27日、「人の話に近刊の週刊朝日とやらに余と寺内大将とは一橋尋常中学校にて同級の生徒なりしが仲悪くしばしば喧嘩をなしたる事など記載せられし由。可恐可恐。」

寺内寿一は親が長州閥の元帥寺内正毅だった。自身ものちに元帥となった。軟派の荷風は寺内に殴られていた。髪を切られたこともあったらしい。吉原通いが理由ともいわれる。荷風の軍人嫌いは、主義思想でなく経験知にもとづいている。

寺内は2.26直後に陸軍大臣となったので、この記事が出たのだろう。皇道派を弾圧し、軍部を代表して政府に重圧をかけた。