荷風マイナス・ゼロ (24)

1925年表紙

 

1943年表紙

 

昭和10年(1935)

11月1日、「尾州熱田神社神殿落成祝賀のためなりとて銀行会社業を休む。明治以来未だかつて在らざることなり。」

11月3日、「ニ三日来花火の響き絶ゆる間もなし。昭和以来暗殺提灯行列祭礼など騒がしきことのみ流行する世となれり。」1927年から明治天皇誕生日が明治節として祝日になった。

11月7日、「午後降灰あり。屋根瓦の上霜の如し。浅間山噴火のためなりと云う。天明のむかしは知らず東京の町に浅間の灰の降り積もりしは余の生まれてより一たびも見ざりしことなり。」

11月14日、「島崎藤村の名義にてペンクラブとやら称する文士会合の集団に加入の勧誘状来る。辞退の返書を送る。」島崎は初代会長。のちに戦陣訓草案を書く。

11月21日、「芝口より烏森横町のあたり辻自動車往来止めとなり諸所に巡査張り番をなす。数日前よりかくの如くなりしと云う。」このタクシー規制は、ガソリン統制と関係あったらしい。

11月24日、新聞広告で女中募集し11月9日ころから勤めだした三十前の女性が、急に来なくなった。誘惑して乗ってきたので関係をもったと記す。以前にも荷風は女中を妾、妾を女中がわりにしている。

 

12月4日、講談社のキングが荷風訳と称する詩を掲載した。「キングは余が名を乱用して読者を瞞着するものなるべし。数年前改造は張学良の名を乱用し中央公論蒋介石の名を乱用して雑誌を売りたることあり。現代日本人のなすところ皆かくの如く信用すべきもの一としてこれ有るなし。」

12月7日、台所に行くと一時行方不明でもどってきた下女が、風邪ををひいたといって「ガーゼの寝衣に赤き細帯しどけなく床の中に寝ていたり。古人の言に一盗二婢三妓四妾五妻とかいうことあり。好色の極意げに誠なるが如し、呵々。」

12月8日、「大本教関係者検挙。」結社禁止となった。

12月11日、「銀座に来れば燈火たちまち燦然。歳暮の夜店にぎやかなり。」

12月12日、「谷崎君武州公夜話を贈らる。」

12月14日、「岩倉全権大使米欧回覧記をよむに時々人をして失笑噴飯せしむるものあり。・・この人々はわずか三四年前までは鎖国攘夷をもって日本の国是となし、徳川幕府が外国と修好貿易の条約をなしたるを憤り外国使節の客舎に火を放ちまたは江戸城に忍び入りて放火などせしものなり。然るにこの人々は明治四年米国に遊び官民の歓迎に酔い欣喜おく能わず・・この筆法を以てすれば堀田備中守井伊掃部頭は偉大なる開明人にして其が先見の明ありしこと薩長浪士の比にあらざるなり。」

12月15日、「この頃夜半過ぎに至れば巡査刑事何処ということなく市中自動車の乗客を呼び止め姓名を問い、あるいは携帯品を取り調べる由。また銀座新橋あたりにて十二時過ぎまで営業する飲食店おでん屋茶漬け飯屋そば屋のたぐいなるべく十二時かぎり火を消すようその筋より通達ありしと云う。」

12月24日、「銀座に往く。群衆雑衆塵埃濛々たり。」

12月25日、「東京日日新聞を見るに丑満時を丑三つ時となし三十七八の人を弱冠となしたり。その愚笑うべし。」

12月27日、下女をとらえて一緒に入浴する。

12月31日、「町の辻々に守レ信号人モ車モ。あるいはあわてるな無理するななど書きたる柱立つ。醜状厭うべし。」

 

満州から華北に侵略の手を伸ばそうとする軍部は、11月25日冀東防共自治委員会を河北省に成立させた。12月25日には冀東防共自治政府としてカイライ政権を樹立した。