荷風マイナス・ゼロ (13)

泉ガーデンタワーに相当する荷風の偏奇館から、銀座四丁目交差点までは直線で2.4kmほどだった。行きは下り坂で、ちょうどよい散歩コースだったろう。帰りはタクシーなども使った。

 

昭和8年(1933)

 

11月6日、「夕刊新聞に佐郷屋死刑判決の記事あり・・佐郷屋減刑の嘆願書につきて銀座辺カフェー組合の世話人銀座の各カフェー及びバーへ回状を送り女給に署名せしめし由(タイガ女給語る所)」

右翼玄洋社の構成員で、昭和5年(1930)浜口首相を狙撃して一年後死にいたらしめた。判決翌年、無期に減刑された。

「銀座二丁目もと服部時計店仮店の跡へ広大なるカッフェー及び舞踏場出来る由。営業人は鮮人代議士朴春琴なり。その背後には旧警視総監丸山某あり。今日までカッフェーとダンス場とを兼業することは警察署にて許可せざりしが、丸山旧総監の斡旋ありしため訳なく許可になりしと云う。鮮人朴は現在カッフェー赤玉の主人という。」

日記欄外に、カフェは許可されたがダンス場は結局許されなかったと注がある。

朴春琴は1907年ころ渡日し、1932年37年衆議院当選。当時、日本国内の朝鮮半島出身者には被選挙権があった。戦後は親日派として批判された。wiki

11月9日、「此の日(犬養)木堂暗殺事件、海軍軍法会議判決ありしと云う。」

前回書いたように死刑求刑が禁固となり、さらに5年たたぬうちに恩赦となった。

11月14日、このごろ市内の舞踏場に出入りする男女がさかんに検挙された。「名家ノ夫人多ク捕ハル

11月17日、「昨夜里見淳、久米正雄菊池寛、その他一派の文士麻雀賭博の嫌疑にて検挙せられし由風聞あり。」

11月19日、聞いた話として。ある女給は貯めたチップが500円、あるいはそれ以上あった。一文無しの某男爵がそれをねらって喫茶店開業をもちかけた。譲渡金700円のうち手付金200円をはらったが男爵はなにもしない。所有者は残金をいそぐので500円渡した。さらに敷金300円前家賃70円を必要とした。どうにもならぬうちに電気も止められあとは闇。

11月22日、ある女給がいて年は三十前後、もとは白木屋の売り子だった。自動車免許と飛行助手の免状をもつという。「近年かくの如き女銀座にて往々見かけるなり。」

11月25日、教文堂地下の富士アイスで夕食をとり、千疋屋に入り盆栽と熱帯魚を見る。「小魚の価貴きもの八九十円、廉なるものも五六円を下らず。」

11月27日、「烏森の佃茂に往く。濃霧朦朧、ほとんど咫尺を弁ぜず。難波橋河岸通の風景すこぶる佳。そぞろに欧州都市の夜景を想起さしむ。」

 

12月3日、「十六夜の月服部時計店の屋根上に照輝きたり。銀座通は日曜日の人出おびただしければ裏通りを抜けて築地明石町の河岸を歩み月を賞す。・・此の日の新聞に谷崎潤一郎君後妻離縁の記事ありと云う。」

12月27日、なじみの女給が数日前「仲通路地裏の汁粉屋より出る所を刑事に捕らえられたり。久我男爵詐欺事件の連累なりと云う。」

12月31日、かつて人の紹介で小説草稿を持参してきた女がいた。浅草で玉突き場を営んでいて、訪ねたこともあった。新宿三丁目でカフェを開いているとの知らせが来たこともある。それが突然訪問して50円借りたいという。

「余今日までいろいろの女と交際したれど、この度の如く何の関係もなきただの知り合いの女より金の無心を言われし事なし。これも現代の人心悪化せし一例なるべし。実に恐るべきことなり。」車代1円わたして帰した。