荷風マイナス・ゼロ (9)

国際連盟脱退当時の絵葉書

 

昭和8年(1933)

1月3日、銀座は「家族づれの客多く雑衆甚だし。赤兒の泣き叫ぶこと宛然洗湯に在るが如し。・・銀座通は去年越しの露店その儘両側に立ち続き散歩の男女雑踏す。」

1月12日、銀座で知人と出会い、同伴のモデルらと溜池のダンスホールに行く。

1月26日、市内電車の広告に、日比谷公園東京市主催某中将少将凱旋歓迎会とあった。

「二三年来軍人その功績を誇ること甚だしきものあり古来征戦幾人回とはむかしの事なり今は征人悉く肥満豚の如くなりて還る、笑うべきなり。」

1月31日、むかしからなじみの金春通り(八丁目)喫茶店キュペルに行く。このあたりは妓家ばかりだったが、今はカフェおでん屋喫茶店のごときものが多いと記す。

 

もとは荷風の遊び場は新橋で芸者相手だったが、震災後の不況で神楽坂にランクを落とした。さらに昭和恐慌、金解禁で経済が悪化すると緊縮が叫ばれ妓家は店をたたみ風俗の担い手が安価なカフェの女給になった。(「断腸亭の経済学」吉野俊彦)

世界恐慌のもと生糸輸出が減衰し、農家の半数近くが商品経済に巻きこまれていたためいっきょに窮乏と過剰人口が拡大した。これが都市性産業人口の源泉となった。

 

2月11日、祭日で街は雑踏した。「銀座通カッフェー飲食店悉く店頭に建国祭の掲示をなし、殊更に神武天皇紀元何年などと大書したり。タイガアの店口を過ぎるに楠木正成とも見ゆる鎧武者の画看板を出し、また店内には大なる乗馬武者人形を飾りたり。東京の市民はカッフェーの掲示によりて始めて日本建国の由来を教えらるるやの観あり。滑稽の至りと謂うべし。」

カフェ・タイガーは震災後、浅野財閥総帥浅野総一郎の手で開かれた。

2月22日、「新聞紙頻りに日本国際連盟より脱退の事を報ず。」

 

レーニン帝国主義論で、世界は列強によって分割されていて後発の帝国主義国は新たな分け前を要求するから戦争は不可避だと論じた。これは第一次世界大戦の分析だが、第二次も同じことが起きた。ただこのたびはソヴィエトが成立していたため、情勢は三体問題のように複雑怪奇に展開していく。

 

 

ともあれ沖縄、台湾、朝鮮へと拡張してきた日本の野望は大陸に向かい、旧来の帝国主義列強はそれを認めなかった。満州国承認に際しての内田外相の「国を焦土にしても」と語った決意は、誇大妄想家たちの手で現実のものとなっていく。