荷風マイナス・ゼロ (10)

 

この年の5月26日、京大法学部教授滝川幸辰が右翼の圧力によって休職処分に追いこまれた。すでに2月20日小林多喜二が拷問死しており、共産主義者からさらに自由主義者へと弾圧が進んだことを象徴した。

原節子の「わが青春に悔いなし」(1946)は滝川事件を下敷きにしている。

 

昭和8年(1933)

 

3月3日、「午前二時半頃強震あり。夜明けて後新聞紙号外にて三陸地方海嘯の事を知る。」

マグニチュード8.1。このときの津波では3000名以上の死者行方不明者がでた。

3月22日、西銀座のある喫茶店は、荷風らのグループを出禁にする。長時間ねばって昼寝などするためか。

 

4月10日、虎ノ門の路傍の電柱や空き地の板塀に「護国大祈祷会、皇道会結盟大会、共産党討滅大演説会等大書したるビラ貼りてある。」

4月29日、「早朝よりラヂオの君が代軍歌など聞こえて騒がしきこと限りなし。天長節なりと云う。」

 

5月5日、二年前から飼っていた、かつての愛人の飼い犬を人に譲る。「余去年の秋より心身甚だしく衰弱し書斎の掃除さえ思うにまかせぬ程になりたれば、狗の世話も下女の手を借ること多き故、愛惜の念を断ちて人に與うることとはなせしなり。」犬はその後、脱走した。

5月7日、喫茶店キュペルに今後立ち入りするなとの、あやしい匿名葉書がくる。後日、女優の白鳩銀子が差出人だとわかる。白鳩は薩摩の田村少将の娘で、戦後フィリピンで処刑された本間雅晴中将の妻だった。離婚後、カフェの女給、荷風愛人、映画主演など気ままに生きた。

5月15日、歌舞伎座楽屋で市川左團次谷崎潤一郎と座談する。谷崎は荷風の推奨で世に出たので、終生荷風に敬意をはらった。

5月31日、「兜町片岡商店を訪い鐘紡株券壱百株を買う。」