荷風マイナス・ゼロ (11)

桐生悠々

荷風昭和8年5月末に鐘紡株を買ったのは、景気が回復しつつあるとの株式仲買店の助言にしたがったからだった。事実、昭和恐慌と金解禁政策失敗につづく不況は、おわりつつあった。金解禁はグローバル経済ルールに乗ることで列強の一員となることをめざしたものだったが、世界恐慌と英国の金本位制からの離脱によって有害なものになっていた。

 

再度の金輸出停止は円安をもたらし、輸出産業は力をとりもどした。また低金利と産業振興策によって、重化学工業の成長がはじまりデフレからの脱却が可能になった。

軍部の増長と右傾化はさらにすすんだが、農村以外の国内経済は小康状態となった。荷風の銀座生活も、3年後の2.26事件までかわりばえすることなくつづく。外食とカフェめぐり、知人たちとの閑談と私娼買いがその日常だった。

 

断腸亭日記には本文記述以外に●の印があることで知られ、それは性交があったことを意味すると推定されている。吉野俊彦「断腸亭の経済学」の集計では、昭和5年87回、6年89回、7年69回、8年85回でこの時期がピークとなっている。1回10円が相場とすると、年間現在の400万円以上を費やしている。資産家でひまな独り者だったから可能なことだった。ただこれは女給小説の取材もかねていたので、元は取っていた。

 

昭和8年(1933)

 

6月11日、「この日日曜なれば銀座通の雑衆最甚だし。此の頃銀座裏の喫茶店又はカッフェーにて知り合いになりたる人多く、毎夜応接に遑あらず、疲労を覚えるを以て此の夜はわざと独りタイガに入りて休む。帰途藤林の妓某に逢い烏森の佃茂に小酌す。」

6月29日、浜町河岸の「公園の小径には狼の如き軍用犬を曳きて歩むもの四五人もあり。通行の人歩を停めて皆之を称美す。人心の殺伐察するに余りあり。」

 

7月25日、「此の夜九時より十一時迄銀座通京橋区一帯防空演習のため燈火を消す。」

7月28日、「谷町電車通より赤坂氷川町辺防空演習にて賑やかなり。」

 

この年の7月、尾崎翠第七官界彷徨が出版された。尾崎自身は、薬物中毒ですでに引退帰郷していた。

 

8月2日「此の夜市兵衛町飯倉の辺防空演習なり。」

8月9日「是夜東京全市防空演習のため燈火を消す。」

8月10日、「終日飛行機砲声殷々たり。此の夜も燈火を点ずる事能わざれば薄暮家を出で銀座風月堂にて晩餐を食し金春新道のキュペル喫茶店に憩う。防空演習を見んとて銀座通の表裏いづこも人出おびただしく、在郷軍人青年団その他野次馬いづれもお祭り騒ぎの景気なり。」

 

この史上初の都市演習に信濃毎日新聞桐生悠々は、8月11日社説で「関東防空大演習を嗤ふ」と題する文を書いた。空襲があったら、木造家屋の多い東京は焦土と化すことがわかりきっている。「敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」のだから、このような演習はむだだ。空襲されない防衛が必要だ、というものだった。

この記事は陸軍の怒りを買い、桐生は9月に信濃毎日を退社させられた。