荷風マイナス・ゼロ (15)

体育皇后 (1934)

 

小津安二郎の「非常線の女」(1933)は、モダン東京の風俗とからめつつハリウッドの暗黒街映画をなぞった作品だった。同監督の「大学は出たけれど」(1929)は昭和金融恐慌下の世相を喜劇として描き、どちらもモダニストとしての才気にあふれた佳作だ。

前にとりあげた伏水修の「東京の女性」(1939)も発火直前の時局を考えなければ、どの時代にも通用するワーキング・ガールの物語として楽しめるものだった。

 

これも以前に紹介した孫瑜監督の「体育皇后」(1934)は、スポーツの本質をさぐりながら日本の侵略と闘う女性の役割を主張するすぐれた娯楽映画だった。

映画は近代技術の先端をいくもので、中国日本ともこの時期にはモダンの吸収に成功し成熟の段階にあったといえる。

 

体育皇后のクライマックスとなる遠東運動大会は実在した戦前の極東オリンピックで、1913年にフィリピン、日本、中国の三か国で第一回大会が開かれた。その後も三国の持ち回りで9回開催された。しかし1934年に日本が満州国を引き入れることを主張し、これに抗議して中華民国は退会し日本の決議で運動大会は解体消滅した。

だから東北三省の選手が参加する体育皇后の設定はまぼろしのもので、映画公開後に苦い現実が突きつけられることとなった。

 

体育皇后