荷風マイナス・ゼロ (7)

ダットサン・フェートン

 

広瀬正マイナス・ゼロの世界では、まちがって乗ったタイムマシンになぜか戦前紙幣9千200円の札束が用意されていた。いまの4千600万円だ。そのため次にマシンが出現する翌年までは、ゆうゆうと時間をつぶすことができた。

主人公は世田谷の仮住まいから銀座にかよい、昭和7年の東京を消費していく。銀座には冷蔵庫、真空掃除機、電気蓄音機、カメラとなんでもあった。ただしそれらは、みな輸入品だ。

高級ラジオは160円だった。技術マニアの主人公は神田にでかけ200円で部品を調達し、ラジオを組み立て間借りする一家にプレゼントした。聴取料は1円だったが、この年加入者100万人突破を記念して75銭に値下げされていた。一家は夢中でラジオにかじりつき、ニュース、演芸、国策番組までなんでも聴いた。

 

9月15日には満州国が承認されたが、8月25日に5.15後成立した内閣の内田外相は「国を焦土にしてもこの主張を徹す」と国会答弁で決意を語っていた。

その日に主人公は新しい身分を手に入れた。地下に潜行するという共産党員の戸籍を、千円で買い取ることができたからだ。

身元不明でなくなった主人公は、せっせと銀座に足を運んだ。荷風なじみのカフェ・タイガーは、チップ1円では相手にされないとのことだったので横町を選んだ。そのころのネオンサインは、蛍光管がないので毒々しい原色ばかり目についた。

東北訛りの若い女に声をかけられ近づくと、真っ白に塗ったお化けのようで逃げ出した。まだメイク技術が、旧式の白塗りしかなかったからだ。

 

元の時代で聞いたおぼえのある、上品なバーだったという5丁目のモロッコをたずねてみた。電蓄で、流行歌でなくタンゴを鳴らしていた。ジョニ黒をたのむと、ポスターのマレーネ・ディートリッヒに似た女性があてがわれた。

 

翌日遅くモロッコに出かけると、バーの中では客をおなかに乗せるクッション・サービスをしていた。他にもマッサージ・サービス、ネッキング・サービス、ポケット・サービス、無抵抗サービスなどがあるという。それが、話に聞いた上品なバーの実際だった。

昨日の女性がまた付いてくれ、探偵小説ファンというので意気投合した。ポーの名前をもちだしたので、頬にキスしてもらえた。調子に乗った主人公は、自分がタイムマシンで未来から来たと打ち明け爆笑された。

会話のなりゆきで自動車を買うことになった。女性を車行に連れ出す約束をした。

 

自動車代理店のならぶ赤坂溜池に出かけると、高級車が4-5千円で大衆車のフォードやシボレーでも2千円以上した。女性の忠告で銀座にもどり、4月に開店したという4丁目のダットサン自動車と書かれた平屋の店をのぞいた。車は主人公の愛車スバル360くらいの幅で、車高がえらく高い。よくひっくりかえるが、車量が400kgと軽いので人手でもどせると知った。

結局ダットサン・フェートンを1200円で買った。値段もあるが、バイクあつかいなので免許がいらないのがいちばんの理由だった。助手席はあったが、建前はひとり乗りだった。

 

こんどは車で銀座にでかけ、花売り少女から50銭で花束を買いモロッコをたずねた。すっかり気に入った女性を店から連れ出し烏森の小料理屋に入ると、むこうから気になることがあると話を切り出した。推理力の強い女性は、主人公の言葉のはしばしから未来人だという告白は事実なのではないかと疑うようになっていた。女性のアパートでいくつかの未来の実物を見せると、正体を完全に信じるようになった。

 

10月になり3日にアパートをたずねるさいには、主人公にはタイムマシンで胸の病のある女性を現代につれていき治療させる決心ができあがっていた。この日はリットン調査団満州報告で、日本の軍事行動は不当で満州国は認められないと結論を出していた。数日前にその結果を予言していたから、主人公にたいする女性の信頼はさらに深まった。

店に手切れ金を払い、バー勤めをやめさせた。日に日に健康をとりもどした女性は、12月から日本橋白木屋百貨店でバイトをはじめることになった。