谷崎潤一郎の疎開 2

戦前銀座四丁目交差点

 

3月3日、友人の孫の節句祝いで帝国ホテルでの祝宴に参席。

海老のクリーム煮、ステーキ、若鶏のパイ包みがメインディッシュ、酒はボルドー白だった。5日から高級演劇料理屋等休業で、これが最後の御馳走ということで上京した。熱海はブリが3万本あがって豊漁なのに、東京は食糧難となっていた。これは前年布かれた配給制のためだが、あるところにはまだ物資があった。

近海で航空戦があった、戒厳令が近い、など風評を聞く。東京空襲までまだ間があるといわれたが、形勢急迫の気配を谷崎は感じた。

4日、麻布の永井荷風を訪ねた。原稿の行く末を依頼されていたためだった。「偏奇館は一見化物屋敷の如く荒れ」、「荷風氏の未発表のものにて最も貴重なるは大正年間以来の日記なり」と記す。

この日は、宝塚大劇場最後の日でもあった。生徒は女子挺身隊に奉仕することになった。大阪歌舞伎座も同様だった。

19日、疎開準備で魚崎に帰る。

 

4月14日、神戸の東亜楼で最後の晩餐を開く。魚翅、牛肉、ナマコ、鶏肉、ボラが出て美味だったが、酒が六合しかなかった。妻の妹信子(細雪の妙子)も参加した。

15日、魚崎を立つ。19時まえ熱海着。

16日、ブリイワシ配給。

17日、鰆配給。

19日、鯖鯵配給。

27日、「熱海近頃食糧豊富にて今日も鰻を売りに来、又鍋に一杯鰮と鯵の配給あり」

 

5月3日、細雪執筆再開。1日3枚あたりで15日に中巻を脱稿。

 

6月16日、詰まっていた配管の修理がおわり、温泉に入れるようになる。

 

7月11日、中央公論社改造社解散決定の報道。サイパン島陥落の話を聞く。

12日、上京し持株の現金化をはかる。関東配電290株。1万4千円ほどといわれる。

1万4千円は2千800万円となる。とりあえず6千円借り出す。

日銀によれば戦争末期の貨幣価値は1円が現在の2千円弱だが、計算上いろいろ不具合もある。このころ卵1個1円で、2千円は想像しがたいからもっと円は減価していたか。

14日、疎開をすすめる広告が出る。東京では敗戦の噂をとりどり聞いた。

18日、サイパン陥落の大本営発表

24日、病の知人を鵠沼に訪ねる。蛤吸い物、目玉焼き、焼き飯、ジャガイモ、精進揚げが出される。帰宅すると鰻、焼き鮎の届け物があった。

 

8月16日、長崎、小倉、米子の空襲を知る。米子は飛行場、造船所など。

17日、宇野千代が鶏1羽持参代金30円。

18日、「網代に行アジ、ソーダガツヲ等を得て帰る、米軍巴里へ十キロに迫る」

京都は大文字火を焚かず、白衣の数百人が山に登り人文字を描いたと京人のハガキあり。

 

9月4日、東京よりのハガキ「いよいよ何もなくゴマ味噌と御飯に醤油をかけてたべてゐる由」。ムツの干物、ニシン、ワカメ、野菜など人に託して送る。

6日、郡上八幡に所用で旅立つ。当地で鮎塩焼、魚田、ウナギ、うるか、つぐみ塩辛、鯉あらい、ぜんまい等ご馳走になる。

8日、魚崎に帰る。家は義妹信子が守っている。

12日、肉400匁1.5キロを52円(10万4千円)で入手する。

15日、「サントリーの七年・・・公定三五円のところ何と二百円の由なり」

夜、三宮の東亜楼で冷菜鮒の煮たもの、魚翅とキンコのスープ、キンコの煮たもの、ベーコンを柔らかくして揚げたものカリントウのような点心、鯉の丸煮二尾、135円だった。1円=2千円だとさすがに破綻しているが、千円として四人前13万5千円ならありうるかもしれない。

19日、トマトひとつ5円。

 

11月24日、熱海宅で空襲警報を聴く。米軍編隊が頭上を飛んでいく。70機で東京爆撃と報道される。

 

12月2日、先の空襲で日本橋茅場町、蠣殻町、神田、九段、本所、田無、中島飛行機工場(三鷹)がやられたと聞く。

3日、東京空襲あり。

7日、東京、静岡空襲。

8日、静岡の長女鮎子夫妻来る。

10日、鮎子夫還るが、列車は掛川までしか通じないと駅でいわれる。

12日、谷崎ファンで福島県小名浜在住の女性が来る。「米二三升、砂糖一貫目、カレイ数十尾、牡丹餅の重詰、蛸等を土産に持参」あまりの重さに家人おどろく。

29日、牛肉1貫3百匁160円、いか塩辛30円買う。小名浜の女性が塩ひとカマス送ってきたので、ふたたびみな吃驚する。

 

昭和20年

3月10日、「帝都大空襲ありし様子なり・・下町大半烏有に帰すと」

11日、焼け出され逃げてきた人の話を聞くと「日本橋神田下谷本所深川浅草は殆ど一軒も家なく一眸の焼野原にて死人何万人なるを知らずと」。送った原稿や知人の安否が知りたく出京の決心。

12日、上京するが知人はおおむね無事、荷風、嶋中は連絡つかず。夜はもっとも安全と思われる、重子が嫁いだ実家の子爵邸に泊まる。「豆腐の味噌汁、大根とニンジンのライスカレー、ゴマメのやうな小さき干物及びコウリヤン入りの御飯を出してくれる、これが目下の帝都にては恐らく最大のもてなしならん」

13日、友人を訪ね都心に向かう。「家人は久留米ガスリの防空服装、予は和服にモンペ袴、靴なり。新橋下車、徒歩にて土橋より外堀沿ひにホテルに至る。・・東宝日劇、有楽座、日比谷映画等は内部は知らずみな立っている」

 

 

 

ゴジラでもこの界隈は残っていたので破壊できた。

東条が殺されたとの風説を聞く。

知人に会って熱海宅を担保に金を借りるつもりが、取引所休止で待ってくれといわれる。小切手で若干円借り、京橋の安田銀行で現金化する。

妻の姉(鶴子モデル)宅を見舞う。「姉妹万感迫りて言語出でず」

 

5月2日、熱海でムッソリーニ銃殺の報を聞く。「終日残務整理に暮らす」

3日、ヒトラー死亡新聞に出る。

5日、銀行で預金全額2万円(4千万円)引き出す。

前日、市会議員の名刺で津山行き切符を1枚入手していた。この日、朝2枚午後2枚買えた。義妹重子が嫁いだ子爵家は津山藩松平氏で、その縁を頼った。(重子の夫は庶子のため姓はちがった。)

6日、夜行で熱海を立つことにする。夜のほうが安全ともいわれた。

津山とは銀行の連絡がないため、おろした2万円を各自の腹巻に巻き付けて携行する。

夜食ヒラマサ刺身、サババタ焼、サザエ。準急大阪行午後9時39分発に乗車する。

「幸にして汽車は左程込んでおらず」

 

(この記事つづく)