東中野芸術家村

 

永井荷風は1945年3月30日の東京大空襲で麻布の偏奇館を焼け出されたあと、東中野芸術家村とよばれるアパートに身を寄せた。ここは現在の中野区東中野4丁目にあたり、地下鉄落合駅近辺で中野区と新宿区を早稲田通りが分かつ境目にある。戦前は住吉町の名だった。

 

以前書いた記事では目白文化村の一部ではないかと思ったのだが、確証がなかったのでふれなかった。しかしこうやって地図で見ると、上落合の真向かいで地続きだったことがわかる。早稲田通りの北隣には吉川英治壷井栄村山知義らが住んでいた。

目白文化村は大正の末に西武資本が売り出した高級住宅地で、文化人が多く住み正確には中落合、中井一帯を指す。しかしその延長で下落合、上落合にも芸術家が集まった。尾崎翠は上落合3丁目の妙正寺川の縁に住んでいた。通っていた銭湯はいまも残っている。

文化村の北は椎名町で、トキワ荘落合の文化の匂いにさそわれて手塚治虫に選ばれたのかもしれない。

 

東中野芸術家村が正式名かはわからないが、アパートは中庭をかこんで各戸に玄関のあるしゃれた造りだった。しかしここも5月26日の空襲で焼け落ちた。妙正寺川には中小軍需工場が密集していたので近辺が狙われたようだ。このとき中落合の聖母病院も壊滅したが、米軍は当初関与を否定した。

 

文化村住人でプロレタリア劇作家の村山知義永井荷風と別れたあとの舞踊家藤蔭静樹に誘惑され、一夜をすごして目覚めたら1928年3月15日の共産党弾圧を報道で知った。まだ入党していなかったので、千人におよぶ逮捕者のうちには入っていなかった。