荷風マイナス・ゼロ (75)

累 竹原春泉画

 

昭和18年(1943)

 

4月2日、オペラ館踊り子に導かれて区役所前リスボンという洋食屋に入って食事する。一皿米飯付き1円である。客はたいてい公園の芸人だけである。

4月6日、浅草公園に行く。三四日前から米国飛行機襲来のおそれがあるといって街路は暗黒である。六区興行町の映画館は夕方閉場。芝居寄席は八時ころ打ち出しにするという。

4月7日、平安堂鳩居堂その他の筆屋にも真書細筆一本もないようになった。毛筆にする羊毛が支那から来ないためであるという。日本文化滅亡の時がいよいよ迫り来ている。

・・新潟長岡辺り空襲の警戒は東京の比ではないという。また東京市中の劇場映画館はどこも昼の中から大入り満員の好況で正月三が日のようだという。

4月8日、松屋で買い物。新橋で食事して帰る。街路に灯火なく暗黒なること昨夜のごとし。ただし電車の込みあうことは夜も昼に異ならない。酔漢がまた多い。

4月9日、隣家の婆が来て言う。近隣の噂によれば霊南坂上森村という人の屋敷は無理やりに間貸しをするよう政府から命令された。また市兵衛町長与男爵の屋敷も遠からず同じ悲運に陥るだろう。先生のお家も御用心なさるがよろしかろうとのことである。かねてから覚悟していたことながら憂悶にたえない。

・・空襲警報この夜解除の報があった。帰途の町の灯のあかるさに空も晴れわたって上弦の月が浮かび出ていた。

4月11日、羅宇屋の車がピイピイと笛を鳴らしながら門前を過ぎるのを聞いた。呼び止めて羅宇のすげ替えをさせる。・・羅宇屋の爺はわたしが四五本もちだした煙管を見てこのような銀煙管はただいまでは10円から20円は致します。道具屋では3-40円でも売らないそうですと言いながらしきりにわたしの古煙管を眺めていた。これはみな三十余年前に東仲通りの骨董屋で一本4-5円で買った。物価騰貴の驚くべきことはわたしの古煙管よりも羅宇屋直し賃の高くなったことである。羅宇屋は平然とした態度で銀延べの掃除が50銭、羅宇竹のすげ替えは一本2円50銭ずつ総計7円になりますという。大正七八年ごろ上等の羅宇すげ替えは一本4-50銭であった。

4月14日、仙台から来た人のはなしに、塩釜海辺の漁夫が沖合で米国飛行機また潜水艇に襲われるものがとても多い。東京の市場に魚類が乏しいのは思うに当たり前のことだろうと。

4月17日、オペラ館の踊り子らに誘われ松竹座となり西洋映画館の映画を見る。モスコーの一夜という題でトーキーはフランス語だった。偶然こんなところでフランス語を耳にした喜びはたとえようがない。

 

モスコウの一夜 1934

 

4月18日、イタリアの酒ベルモットを飲む。一杯金20円だという。可驚可恐。

4月20日言問橋の欄干その他鉄製と見えるものがことごとく取りはずされていた。日本橋をはじめ市中の橋梁も同じ憂き目にあったという。

4月23日、オペラ館の踊り子らとまた松竹座隣のフランス映画を見る。

4月25日、中央公論連載谷崎氏作小説細雪三月号をかぎり以後掲載を見合わせとなる。

4月27日、夜新橋の金兵衛で食事する。四五日来配給の日本酒が途切れたといって客をことわっていた。招魂社祭礼で酒はみな偕行社に買い占められたためだという。

街談録

これは去年冬のことである。偕行社内部の者が軍服用羅紗地を盗み出し市中の洋服屋に売り渡した。洋服屋は各自その店のお客にすすめ国民服一着金130円で売ったところこのことは早くも憲兵隊の知るところとなり憲兵省線の各停車場また銀座上野など繁華街の四辻にたたずみその軍服用羅紗地でつくった国民服を着た者を見ればすぐに引捕らえ憲兵本部に連れて行き尋問の末に始末書を出させたという。軍服用羅紗はその色合い地合いなどが普通の物と違うところがある。憲兵が見ればすぐさま判明するものという。

4月29日、阿部雪が来て大掃除の下掃除をする。

4月30日、不在中伊藤駒子もと銀座タイガー女給来訪。

 

5月4日、街談録

四月末ごろの祭日である。都人が食料品野菜鶏卵などを買い集めようと近県に行く者が多いので刑事らはこれを捕まえようと千葉埼玉あたりの汽車停車場に張り込んでいた。夕刻までに捕らえられたものは数千人の多さにいたったがその大半は鉄道および郵便局の役人だったという。

5月5日、夜新橋の金兵衛で食事する。金平糖を売りに来たものがいた。一貫目35円だという。砂糖の闇相場はその後引きつづき騰貴して一貫目20円から25-6円になった。そのため金平糖は35円なので高くはありませんと商人の言い草である。

5月6日、オペラ館踊り子らとフランス映画白鳥の死(1937)を見る。少女らはただ写真の画面に興味をおぼえわたしはフランスの言葉を耳にして暗愁をもよおすのである。

5月9日、午後阿部雪子来話。

5月10日、目黒大森あたり一帯は日照りつづきのため水道が枯渇し井戸のない家では飲み水にも苦しんでいる、湯屋床屋いずれも水がないため休業しているという。

5月11日、雪子来て大掃除の手伝いをする。

5月12日、警戒警報の笛が鳴りわたり街頭の灯火がことごとく消え去ったが空に半輪の月があった。帰路今井町のなだれ坂わが門前の御組坂も悠然として歩くことができた。

5月13日、市兵衛町二丁目の長与男爵邸の塀外に配給所の炭俵が積み重ねられていた。毎夜人が静まってから俵を破り炭を少しずつ盗んでくる。この夜は警戒警報発令中で街路は寂寥とし通行人は途絶えがちなので大いに収穫があった。明朝はガスを使わずに朝飯を炊くことができるだろう。

5月14日、浅草に行く。三社の祭であるが公園の内外は平日よりも静かで工夫らが仲見世から伝法院裏門あたりにつらなり鋳物街灯の柱を取り除いていた。

5月17日、菊池寛が設立した文学報国会なるものが一言の挨拶もなくわたしの名をその会員名簿に載せた。同会会長はわたしが嫌悪する徳富蘇峰である。わたしは無断で人の名義を乱用する報国会の不徳を責めてやろうかとも思ったがかえって豎子をして名をなさしむると思い返して捨てて置くことにする。

・・芝口の金兵衛で休む。おかみさんが配給の玄米を一升瓶に入れて竹の棒で搗いていた。一時間余りこのようにすると精白米になると言った。

5月18日、新橋駅北口の外にある三河屋という居酒屋は夕方五時からコップ酒を売る。四時前から群衆が二列になって店が開くのを待っている。番札の早いものを内々で1-2円で売る者もいるという。また東京駅ホテルのボーイは京阪行き汽車寝台券を3-40円で売るという。

5月19日、市中いずこといわず唐物屋呉服屋洋服屋などおいおい戸を閉ざすものが多くなった。表具師も三十代の者はたいてい徴用令で工場に送られたという。石川島造船所などでは小菅監獄署の囚人を使用しているという。内閣更迭の風説がある。

5月20日、路上禁煙と書いた貼り紙が市中いたるところ目につくようになった。去年冬ごろから始まったという。このごろまた防火用服装をせず平服で市中を歩けば翼賛会青年団と称する者がこれを誰何するという。ただわたしはいまだ幸いにしてその恥辱にあわない。

5月21日、金兵衛に立ち寄り夕飯を食べる。物売りの婆が来てカステラを巻いたのを出して一本7円50銭だといった。

5月23日、顔を洗う石鹸もなくなり洗濯用石鹼だけとなったためとりわけ女たちは困り果て糠をとるため玄米を瓶に入れ棒で搗くものがいよいよ多くなったという。一升の玄米が四五十分で白くなるという。

5月24日、ガス風呂使用のため診断書を作成させた。

街談録

洋画家某のはなしに、ある若い彫刻家が目下銅像の製作禁止となったのでその色が似ている黒い蝋石を用い軍人の形を彫り陸軍省に献上したが、陸軍省では有難迷惑だが拒絶することもできずしぶしぶ受納したが石の色が銅に見えるのを嫌いペンキ屋を呼び真っ白にペンキで塗ってあまり目につかない廊下の隅に置いたという。

5月26日、長唄常磐津の芸人もおいおい徴発され職工になるものが多くなったという。

5月27日、近ごろ物品の闇相場を聞くと次のようだ。

砂糖 一貫目 金30円 一斤4円余

白米 一升  金34円

鶏卵 一個  金30銭 

葛粉 百目  金10円

洋服羅紗地 男一人分 340円 仕立て上がり一着 5-600円

鶏肉 一羽  金15円

南京豆 一貫目 金3-40円

5月29日、青森りんご一箱をもらう。鉄道小荷物便で箱を開いて見ればその半ばはくさっていた。

 

6月1日、電車7銭のところ10銭に値上げとなる。また酒および割烹店で酒を売ることがこれまでは夕方五時からだったがこの日から夕方六時に改められたという。

街談録

このごろ南洋での山本大将(五十六)の戦死、つづいて北海の孤島(アッツ)に上陸した日本兵士の全滅に関して、一部の愛国者はこれは楠公の遺訓を実践したものとした。これに反して他の憂国者の言うところをきくと戦死の一事がもし楠公の遺訓だとすればむしろ楠公戦死の弊害を論じないわけにいかないとする。楠公の事績は建武年間の歴史を公平に冷静に研究したのちはじめてその勲功を定めるべきである。楠公新田義貞とを比較し一を忠臣の第一とし一を尋常平凡の武士とするのは決して公平な論ではない。これはちょうど日露戦争で東郷大将の勲功を第一とし上村中将をその第二位に置くようなものである。・・かつて福沢先生が楠公の敗死を一愚夫が主人から託された財布をなくし申し訳ないといって縊首したものに譬えたのは、今日その比喩のいよいよ妙であることを知るに足るであろう。うんぬん。

6月2日、たそがれ時浅草から向島の土手を歩く。国民服をきた職工がその家族をつれて土手の夕暮れを散歩するものが多い。時勢につれて隅田の情景の変化するさまは注目すべきである。

街談録

公園の芸人某から玉の井の噂を聞くと、例の抜けられますと書いた路地の女の相場はまず5円から10円となった。閨中秘戯に巧みなものはだんだん少なくなった。花電車という言葉もおおかた通じないようになった。お客に老人が少なくなり青二才の会社員また職工が多くなったためだろう。この土地で口舌を使ってすることをスモーキングという。一部賑本通り西側の大塚という家には去年ごろまで広子月子なな子勝子という四人がどれも5円でスモーキング専門の放れわざをしていた。今は時子という女がひとり残っている。そこから四五軒先の土井という家の女も15円で口舌のサービスをする。その先の市川という家にも同様の秘術をするものが一人いる。しかしこれはお客にも自分のものを舐めさせなければ承知しない淫物である。桑原の家には金さえ出せばのぞかせる女がいる。無毛の女はこの土地ではあんがい忙しくその数もずいぶんある。一部広瀬方、四部長谷川方にいる女は無毛を売りものとして曲取りがたいへん上手である。うんぬん。

6月3日、棚の上の洋書で読み残したものも次第に少なくなった。洋書とともにたくわえておいた葡萄酒も今はわずかに一壜を残すだけ。英国製の石鹸も五六個となりリプトン紅茶も残り少ない。鎖国攘夷の悪習はいつまで続くのか。

6月6日、午後浅草に行く。昨日は市中劇場その他興行物が休みだったので公園一帯の人出は正月三が日のようである。オペラ館で少し休む。支配人田代氏がきて公園はいまだに軍需景気だという。

6月7日、汽車乗客制限以来熱海温泉の旅館遊客は半減のありさまだという。また旅館主人は組合事務所に毎朝集合し軍隊教練を受けるという。

6月8日、仲見世の人通りを見ればいつもの世を憤る心もたちまち穏やかになって言い知れない安慰をおぼえることは今もなお昔に異ならない。

6月11日、午後庭を掃いていると二十ころの洋服の女ふたりが門の戸を開けひとりは外に立ち一人が来て携えた風呂敷の結び目を解きかけ干瓢椎茸はいりませんかという。値段を聞くと百目2円だといって紙包みにしたのを出した。容貌もそれほど醜くないのでどこから来たかと問うと四国の宇和島から行商に来るといって去った。

6月13日、蒲田大森あたりの水道がまた水切れとなって住民は飲料水にも窮しつつあるという。これでは防空防火演習もできないといって喜び笑うものもいるという。

午後二十八九とも見える醜からぬ和服の女がきて名刺を出し京都に住むものだが東京の名家先生たちの書画を集めたいと思って滞在しているといって風呂敷包みに五六本揮毫用紙を巻いたものを示し四五日中にいただきに参ります、これは些少ながらといって京都の湯葉ひと包みを置いて立ち去った。この土産物とその言葉使いによれば京都の女というのは噓ではない。何となく薄気味わるい女である。

6月20日、金兵衛の板前から砂糖を買う。一貫目5円、やがて50円に上がるだろうという。

6月23日、幸橋税務署から所得金額通知書がくる。本年は文筆所得乙種所得金1000円とある。一昨年は6000円だったのを去年はわたしが抗議して2600円とし今年はさらに減じて1000円とした。わたしが筆を焚いた事情を推察したのか。笑うべきである。

6月25日、オペラ館を訪ねる。新舞踊土橋の雨とか題するもの、累の殺しである、が上演禁止となったという。歌舞伎座で真景累ケ淵も先日禁止となったがその理由は人が殺されて化けて出るのは迷信で、国策に反するものだという。芸術上の論はさておき、人心から迷信を一掃するのは不可能なことである。近年軍人政府のすることを見ると事の大小にかかわらず愚劣野卑で国家的品位を保つものはほとんどない。歴史あって以来時として種々野蛮な国家が存在したことはあったが、現代日本のような低劣滑稽な政治が行われたことはいまだかつて一度もその例がなかった。このような国家と政府の行く末はどうなることか。

6月27日、長唄の芸人にも徴用令で工場へ送られるものが次第に多くなった。杵屋巳太郎のせがれ三十才ころの者はすでに工場で働いているという。また田園調布の辺りは街頭の追いはぎと強盗の被害が毎夜におよぶという。夜帰りの婦女で強姦されたものも少なくないとの噂である。

6月29日、オペラ館楽屋を訪ねる。大道具職人の部屋に切り餅の焼いたのを持ってきて一切れ30銭で売る者がいた。踊り子は大勢寄り集ってこれを食っていた。三四人の踊り子とともに楽屋を出ると五十番という支那料理屋に行き1円の定食を食えば生ビール一杯が呑めると語る者があるのを聞いて皆々走って行った。そのとき別の踊り子が歩み寄りモーリでは七時から汁粉を売る、またハトヤでは珈琲に焼きパンがあると知らせる。わたしはひとりの踊り子とハトヤに行き茶を飲んだあとまた表通りの映画館で白鳥の死を見る。オペラ館にかえり舞踊一幕を見て出れば日はまったく暮れ果てあたりは暗黒深夜のようだった。