荷風マイナス・ゼロ (70)

シンガポール陥落時スィク教徒捕虜を銃殺。

 

昭和17年(1942)

 

1月1日、旧暦の暦を売ることを禁じられたので本年からわれわれは太陰暦の晦朔四季の節を知ることが出来なくなった。昨夜は月がやや丸かったのを見たので今日は十一月でなければ十二月の十三四日になるであろうか。

1月3日、午後に隣組の老婆が来て大晦日から夜半より点火禁止。当分正月中は街灯もつけられないだろうという。その理由を問うと正月夜中に明るくする時は人々が酒を飲み遊び歩くものが多くなるからこれを防ぐためだろうと言った。

1月4日、午後地下鉄で浅草に行った。東武電車の表階段に乗客が押し合うさまが物すごい。西新井の大師に初詣する人々だという。

1月5日、近隣の人のはなしに塩醤油とも去年の暮れから品切れとなりいつ酒屋の店に来るやら望みはない。砂糖も十日すぎにならねば配給しないという。いよいよ戦い勝って食い物のない世とはなり行けり。

1月6日、金兵衛で夕飯を食べる。隣室に某所の病院の院長だと称する人が元日から三日の間房州館山におもむき心身鍛錬のため未明に海水を浴びて禊をしたと高声に語るのを聞く。語調はなはだ高慢である。わたしは黙然として思うに寒中水を浴びて行をするのは禊だけにかぎらない。東京にはむかしから寒参というものがあったが近年しだいに衰え軍人執政の世になってからミソギというものがにわかに流行りはじめた。寒中の水浴がもし精神修養に効果があるなら夏の日に暖炉にむかって熱湯を飲むのもまた然りであろう。滑稽和合人と題する小説に泰平の世の道楽者が寄り集まり土用の炎天にどてらを着て物干し台にあがって日見の宴を開くくだりがあった。滑稽で顎がはずれる。

1月8日、銀座に行く。家ごとに旗を出していた。人に聞くと毎月一日の興亜禁酒日が今年から今日に変更になったという。

1月17日、来月から衣類呉服物も切符制になるとの噂である。

1月19日、人の話に玉の井亀戸の銘酒屋ではお客に1円の少額債券を買わせるという。これはこの色町では芸者娼妓のように揚げ代に遊興税を付加することができないので政府はその代わりとして1円債権を売りつけることにしたという。窮状憐れむべし。

1月21日、隣組の人が菓子切符一人前20銭分をもってくる。・・衣類の制限一人前若干の事いよいよ決定され来月一日までは靴足袋肌着ふんどしなども買うことができないという。

1月22日、日本橋通を歩く。白木屋前の露店に人々が行列を作っているので何かと見ると軽焼き煎餅を買おうとしていた。市中の呉服屋洋品店は一軒残らず戸を閉めていた。靴帽子屋は例外だといって平日通り店を開けていた。

1月23日、チリ紙石鹸歯磨きが配給切符制になるとの風説がある。市中からこれらの品が昨夜中に消失したという。チリ紙ふところ紙がなくなり銭湯の休日が多くなる。戦勝国婦女子の不潔なること察すべきなり。

1月26日、町の噂に玉の井亀戸の女も一週間に一日づつ朝十一時より午後三時まで付近の工場に赴き箱貼りをするという。市中の芸者はすでに去年から見番に集まり紙貼り箱貼りなどの仕事をしているという。

後日の噂に玉の井の女は工場には行かず一軒で週に一回組合事務所三階で箱を貼るという。

1月28日、午後銀座通り買い物。資生堂洋食店モナミその他休業する飲食店が追々目につくようになった。土橋のエイワンはすでに閉店したとの噂がある。

1月29日、町会から衣料購入切符を送ってくる。

1月30日、情報局から芝居の人を呼び出し中佐某なるものが上杉謙信を芝居にせよ、謙信が兵を動かしたのは前後七度みな義にもとづいている、名将というべしと申し聞かせたという。輝虎入道が親を殺したことは中佐某は知らないのだろうか。

 

2月2日、羊羹をもらう。甘いものをくれる人ほどありがたいものはない。過日には熱海大洋旅館の主人からココアと砂糖をもらった。このよろこびも長く忘れないだろう。

2月3日、この夜は節分であるといっても撒くべき豆がなければ鬼は外には行かないだろう。豆まきといへど豆なき家の内 福は来たらず鬼は追われず。

2月4日、オペラ館踊り子の部屋に行く。・・幕間の雑談は、甘いもの欲しいという事ばかりである。

・・近日市中飲食店の検挙が行われるとの風説がある。金兵衛では万一のことを考えなじみの客以外はいっさい料理酒を売ることをさしひかえているという。この夜おかみさんから醤油また二三合をもらい空き瓶に入れもちかえる。

2月10日、物買いにと夜浅草に行く。瓶詰牛肉大和煮と称して鯨肉を売る店が多い。

2月12日、二三日このかた日英戦争のため株式相場暴落という。

2月14日、夕方土洲橋病院に行く。このごろ外来患者の靴外套が盗まれること再度におよぶという。市中では銭湯の盗難がひどいとのことである。震災以後近年はこのような盗難は一時その跡を絶っていたが再びこのことがあるのは細民の困窮がしだいにはなはだしくなった証拠であろう。アパートや貸し二階などの昼鳶(コソ泥)もいよいよ多くなったとの噂である。

2月16日、午後日本橋を通ると赤塗自動車にシンガポール陥落記念国債金10円20円の幟を立て蓄音機をしかけ国債を売り歩いているのを見る。大蔵省の役人どもだろう。(1月にクアラルンプルを落とし、2月15日にシンガポールを占領した。)

2月17日、上海から帰ってきた芸人のはなしに昭和十一年二月政府の元老重臣を虐殺した将校はみな無事に生存し上海にいるのを見たという。

2月18日、午後浅草向島散歩。実は場末の小店にはおりおり売れ残りのよい缶詰がありまた汁粉今川焼などを売るところがるので暇あるときは所定めず足を運ぶのである。白髭神社のほとりに女たちが多く集まっているので近づいて見ると玉の井娼家の女が組合の男につれられシンガポール陥落祝賀祈禱のため隊を作って参詣していた。滑稽のきわみというべきだ。

2月21日、(理髪店に行き)化粧用の油石鹸正月ごろから品切れという。この後理髪用の香油がなくなるときは日本人は老弱をとわずイガグリ頭になるしかない。これは軍国政府の方針であるという。

2月22日、本年より毎月二十二日および八日は魚屋料理屋休業。

 

3月1日、夕方嶋中氏に招かれ上野鶯谷の塩原に行く。上野地下鉄構内の売店がつづいたところに若い男女ふたりが寄り合い別れようとして別れがたいようでふたりとも涙ぐんだまま多くを語らず立ちすくんでいるのを見た。ふたりの容姿服装は醜くない。中流階級の子弟らしく見える。わたしはしばらくこれを傍観し今の世にもなお恋愛を忘れないものがいるのを思い喜びを禁じ難いものがあった。

・・塩原に行くと谷崎氏はすでに居た。・・おかみさんらしき人は年四十前後であった。女中はみなしとやかだった。料理の中で記憶に留まるものは鯛塩焼き、飯蛸さくら煮、刺身、鱧吸い物、蕎麦切など、食後ぜんざい、菓子最中餡のかわりに飴を入れてあったのを出す。

3月7日、愛宕下税務署に行き去年から文筆で得た所得が皆無であることを告げ、以後免税がしかるべきであることを申請した。

3月8日、風聞録

一 土方与志中条百合子村山知義らは去年から市中各所の警察署にいまなお留置中であるという。

一 去年十二月八日の戦功があった海軍士官および水兵四五百名、その一部は九州別府温泉、一部は熱海の温泉宿に保養休暇をあたえられた。海軍省では旅館組合の者を呼び出し戸障子畳などを破るものがいても制止することは無用である。損害は海軍省に申し出れば即金で弁償してやるだろうと申し渡した。熱海では土地の芸者でもし無理やりに慰み者にされる者は組合で後日祝儀を与えるから所をとわず言いなりになるよう内談したという。以上熱海居住の人から聞いたままを記した。

3月12日、市中昼の中から酔漢が多い。戦勝第二回祝賀のためだという。

3月19日、噂のききがき 上野東照宮五重塔のほとりの休み茶屋では近年茶くみの女に花見の時節に赤襷赤前垂れをしめさせていた。しかしこのほど警察署で赤前垂れは目立つから緑または桃色にすべしと申し渡したのに茶屋のかみさんは承知せず、警察署に行きなぜ赤い色は御禁止になったか。日の丸の旗も赤いではございませんか。赤前垂れは派手なので桜時にはふさわしいものです。もし派手なものがいけないと言われるならばお上の御威光で春も来ず、花も咲かないようになさいませとしゃべり立て、役人も返す言葉なくついに例年通り赤前垂れを許すことになったという。