荷風マイナス・ゼロ (71)

1941年暮れから1942年5月までの東部戦線。ドイツ軍は進撃から一転して後退を重ねたが、まだ夏に反攻する力は残っていた。

 

昭和17年(1942)

 

4月7日、魚類品切れとなり今明日銀座通辺の日本料理屋は休業の貼り札を出した。

4月11日、近ごろの茶の湯の流行は日本精神涵養のためだという。足利精神北朝精神の誤りであろう。

4月17日、八重桜が散り残っているのに狂風が枝も折れよとばかりに吹きすさむさまはいかにも戦乱の世らしい心地がする。

4月18日、芝口の金兵衛に行き初めてこの日午後敵国の飛行機が来て爆弾を投下したことを知った。火災の起こったところは早稲田下目黒三河島浅草田中町あたりという。歌舞伎座は昼間から休業、浅草興行物は夕方六時ごろで打ち出し夜は休業したという。新聞号外は出ず。(初空襲。B25が16機で東京大阪名古屋を爆撃した。)

4月19日、人の語るところを聞くと大井町鉄道沿線の工場が爆弾で焼亡、男女二三百人が死んだという。浅草今戸あたりの人家に高射砲の弾丸の破片が落ちてきてケガをしたものがあった、小松川あたりの工場にも敵弾が命中して火災になったところがあったという。新聞紙は例によって沈黙しているので風説いたずらに紛々とするのみ。

4月26日、昭和十一年二月二十六日の朝麻布連隊叛軍の士官に引率され政府の重臣を殺した兵卒はその後戦地に送られ大半は戦死したとの噂があったが事実はそうでない。わたしの知った人はもと慶應義塾の卒業生で叛軍士官に従った者。先日偶然銀座街頭で邂逅し重臣虐殺の顛末および出征中のはなしを聞いた。南京攻撃の軍に従い二年半かの地にいたという。南京は一度に落ちたのではない。二回敵軍に奪回され三度目にいたって初めて占領できたという。この人は高橋是清が機関銃に打たれて倒れるさまを目の当たりに見、また中華人の数知れず殺されたのを目撃しながら今日にいたって戦争の何たるかについては一向に考えるところがないようだ。戦争の話も競馬のはなしもさらに差別がないように見える。今日の世にはこのような無神経の帰還兵士がとても多い。過去の時代にはトルストイなどの理想家がいたこと夢にも知らぬのだろう。

4月29日、夜ユーゴーの詩集恐怖の年を誦する。

4月30日、京橋区内カフェー洋食店に雇用される者のうちおよそ二百人ばかりが徴用令で二年間沖電気工業会社工場の職工にされ合宿所に入れられたという。金春新道喫茶店キュペルの息子もそのなかにあるという。

 

5月7日、ある人のはなしに松竹会社文芸部員小出某その他ニ三名、去年から徴用令で南洋に送られ、その資格は軍曹で仕事は紙芝居の筋書きをつくることという。背景はおなじく徴発された大道具の画工が描き占領地の住民に見せ日本国は神国であることを知らしむるという。

5月13日、一昨日日本運送船太平丸が玄界灘で米国潜水艦に襲われ沈没し死人八百人あまりにおよんだという。新聞には今日にいたるもその記事はないという。

5月14日、上海から帰港の商船がまた一隻撃沈されたという。

5月18日、脚気の疑いありといって注射をする。先月から市中に野菜果実ほとんどなく沢庵漬けさえ口にすることが稀になった。脚気が生じたのはこのためだという。

5月29日、与謝野晶子没。

 

6月3日、二三月前から市中に石鹸が品切れとなったがこのごろは洗濯石鹸もなくなったという。

6月4日、玉の井に行き七丁目の知った家を訪ねる。四年前この家で働いていた女が帰ってきたのを見た。一昨年の暮れに石鹸製造工場の職人の妻となったが浮気商売のおもしろさが忘れられず今年の春から二度目の勤めをするようになったと語った。

空爆阻止のため計画された6月5日-7日のミッドウェー海戦で日本は大敗し、戦局の転換点となった。)

6月8日、巷の噂に朝日新聞記者中にはその後も間諜の疑いあるものが多いため同新聞は近いうち廃刊を命ぜられるだろう。またその事に引きつづいて近衛前総理の身辺も危険になるだろう。開戦当時英米政府から莫大な金をもらったことが露見したためという。

6月11日、隣組の人が豆腐をもってくる。一丁6銭だという。牛乳配達夫がきて医師の診断書がない人には牛乳を売らないことになったので何卒その手続きをしてくださいという。夜金兵衛に行く。客の中に萩の餅を持ってくる人あり、食パンを持ってくる人あり、少しづつ知った人に分かちあたえるのである。日英開戦以来食料品の欠乏は日を追ってひどくなった。

6月13日、夜金兵衛に行って食事する。支那青島から持ち帰った羊羹をもらったといっておかみさんが薄茶を立ててご馳走してくれた。先日にはあるところで台湾の羊羹を馳走してくれた人がいた。あわれ不思議な世となった。

6月15日、築地佃茂の店から砂糖をもらう。

6月19日、金龍館南側ハトヤ茶店のあたり一帯に焼跡となった。火事はいつごろか。

6月20日、午後町会の役員が来てわが家は防火設備をしていないので二三日中に警察官が同行して来る、その時の様子で罰すると言って去った。このごろ町会の役員は古いものがおいおい去り新しいものが多くなった。そのためこの後は偏奇館独居の生活がむづかしくなる様子である。いよいよ麻布を去るべき時節が到来したのだろう。アパート空室の有無を電話で菅原氏に問い合わせ、夜になるのを待って銀座富士アイス店で会談した。菅原君居住のアパートには目下空き室はないが一二ケ月中にはなんとかなるだろうとの返事であった。この夜永井智子も同伴だった。銀座通りの喫茶店いづれも九時に閉店早いのは八時ごろに客を断るところもある。百貨店松屋三越の黄銅の手すりはみなはずされていた。

6月23日、幸橋税務署から本年もまた文筆収入高6000円との通知があった。政府の不義を痛嘆すべし。

6月27日、歌舞伎座の前を通りすぎる際建物の装飾に用いた銅鉄類を取り外しの最中だった。表入り口の庇に取り付けた鳳凰絵看板の銅瓦もまた除かれるようだ。新政府は劇場の建築をもって現代の美術とはしないようだ。築地電車通りの人家を見ると二階窓の欄干格子など鉄製のものはおおかた木材に取り換えられていた。

6月28日、オペラ館に行く。館内の金具黄銅の手すりがみな取り換えられていた。道路に敷いた溝の上の鉄板も土管に似た焼き物に取り換えられていた。