荷風マイナス・ゼロ (52)

永井智子は歴史小説永井路子の母にあたる。このブログ記事によると、永井路子は母智子と荷風は遠い縁戚だと発言している。

 

昭和13年(1938)

 

5月1日、夕方オペラ館に行きソプラノ眞弓明子の部屋で葛飾情話台詞の稽古をする。幕間に明子輝子よし美とともに出てシャトルで夕飯を食べる。葉書を菅原君に送る。

5月2日、朝日新聞から電話で拙作歌劇のことについて問い合わせあり。・・門を出ようとするとき東京日日新聞の記者が来るのに会い書斎に呼び寄せる。これもオペラ館歌劇のことに関してである。京橋から地下鉄で浅草に行き宮城輝子竹久よし美淀橋太郎毛利好尚らと森永で飲む。小川丈夫が来て鎌倉から歌劇作譜の一部が到着したという。閉場後これをきく。この夜また来週興行踏歌の練習あり。テノール増田楽長中山良男らとハトヤ茶店で親しく話す。・・車で踊り子3-4人を吉原廓外と入谷辺りの家に送って麻布に帰る。三月以来踊り子の生活を観察すると悲哀いうにいわれぬものがある。

5月3日、浅草オペラ館に行き小川増田の二氏と拙作歌劇けいこについての手順を話す。この日毎夕新聞がわたしと西川千代美に対して中傷する記事を掲載する。閉場後小川氏竹久よしみらと森永で食事しさらに蔦屋で少酌してかえる。

5月4日、鎌倉から楽譜がまた到着したという。オペラ館開演中その幕間に男女俳優7-8人とともに森永に会飲する。閉場後小川氏よし美てる子の3人とともに銀座に行く。てる子という歌手は年17-8、去年青森から上京してまだ東京の町々を知らないとのはなしに、誘って銀座見物に行ったのである。深更浅草に立ち戻り柴崎町の蔦屋に少憩してかえる。

5月6日、午後起き出て浅草に行く。六区楽屋横町の光景は昨年来一変し興味が新たになっていった。上海お六と呼ばれる女と満州人俳優某との情事を聞き、目の当たりその人物を見る。竹久よし美、宮城てる子、高杉妙子らとともに森永で食事する。閉場後俳優荒井某宮城てる子とともに歩いて駒形の荒井の家に行く。ハワイ土産の紅茶をのむ。てる子は荒井の家の二階を借りて住んでいるのである。この日オペラ館楽屋の噂で拙作歌劇の合唱に関し、これに選出される者は縁の下の力持ち同様なので、不平不満を鳴らすことはなはだしいと知った。歌劇の演奏はたして実行することが出来るや否や。

5月6日、夕方菅原氏と銀座富士地下室で会談してひとりオペラ館に行く。

5月8日、増田齋田小川の三氏と拙作歌劇俳優の人選および役割を定める。閉場後竹久宮城の二優とともに森永で一酌する。小川氏また来る。帰宅後小川氏編集の雑誌新喜劇の原稿をつくる。また葛飾情話開幕前口上の文案をつくる。

5月9日、灯刻オペラ館楽屋に行く。閉場後竹久よし美宮城輝子男優高嶋の3人とともに森永で食事する。小川氏が来て用談があるという。ふたたびオペラ館に行く。小川氏の話は以下のようだった、わたしが楽屋に出入りし踊り子女優を誘い食事に出るのははなはだ世間体がよくない。楽屋頭取長澤という人がはなはだ不快に感じている。またたびたび文芸部の作者らがわたしとともに飲食するのもひどく気にいらないとのこと、頭取が言い出したので小川氏と頭取のあいだで口論があったという。わたしは小川氏をなぐさめ焼き鳥屋蔦屋に一酌し2時過ぎ車で家に帰る。わたしは小川氏の談話を聞き今日まで緊張していた興味が一時に消え失せた思いがした。好事魔多しとは思うにこれらのことを言うのだろう。わたしが初めて川上典夫に導かれて楽屋に行ったのは今春2月27日の夜であった。それから今日まで数えれば6-70日の間わたしの晩餐は可憐な舞群女優の伴侶があるため非常ににぎやかなものだった。わたしは食事の時葡萄酒のほか他の飲料を口にしないが女たちの中におりおりビールを飲むものがいて、わたしもついにこの酒の味を知るにいたった。明日からいよいよ葛飾情話の稽古が始まるはずだが、踊り子らとともに飲食が出来なくなっては稽古場に行く心も起きない。浅草に対する興味もこの夜をかぎり、すでに過去の思い出になったとは悲しき次第である。

(欄外書き込み)後日の噂に竹下よしみは頭取長澤の妾でそのためこの事があったという。

5月10日、10時過ぎオペラ館に入ると菅原君はすでに居た。増田晃久がピアノを弾きすぐに葛飾情話合唱群の練習をする。夜12時半宮城輝子小谷絹子らと品芳楼に一酌してかえる。・・この夜絹子からその姉西川千代美が舞台を退いたとの話を聞く。

5月11日、午後二時小川氏の電話に呼び覚まされオペラ館に行く。背景画家の来るのを待ち合わせ放水路の実景を見たいという。画家は徳田某といい伊藤憙朔の門人だという。作者淀橋氏もまたともに行く。わたしの台本は船堀辺の堤防を舞台にしたものだが、道が遠いので円タクで堀切橋に行き綾瀬川の西岸を歩く。水郷新緑の風景は画に描いたようだ。東武電車で浅草に帰り来たときは日はすでに傾いていた。・・この夜オペラ館で歌劇練習あり。・・練習が終わったのは暁2時過ぎであった。合唱群の女子とともに柴崎町の支那飯屋で食事する。

5月12日、午後一時半オペラ館に行きテノール増田アルト永井智子ソプラノ眞弓明子とともに佐城青児の家に行く。・・オペラ館幕間にこの家でわたしの歌劇の練習をする。三時ころオペラ館に還る。道具帳を見てのち二階踊り子の部屋に入り昼寝をこころみる。この夜閉場後歌劇の立ち稽古あり。しかし前半だけで後半は菅原君から作譜を送ってこないため出来なかったのである。また過日依頼していた合唱練習の指導者も姿を見せなかった。やむをえず増田氏が合唱群の練習をした。十二時半練習を終わった。

5月13日、オペラ館に行く。合唱群の練習があった。菅原君よりその後第二場の作譜がまだ来ない、館員一同この夜にいたって初めて狼狽し、鎌倉に電話などかけた。

5月14日、薄暮オペラ館に行きその閉場するのを待って情話の練習をする。作譜が初めて完成したという。練習中館員が来て吉屋信子なるものがわたしに面談したい由を告げる。避けて会わないようにと思ったが機会を失して逃げることができなかった。観客席に行って信子と対面する。お付きの一書生がわたしと信子との写真を撮影した。この夜また早稲田の学生と称するものが10人ばかり来てわたしに面談を求めたがこれは許さなかった。面倒ごとがまことに煩わしい。練習が終わってのち踊り子道子絹子の二人と柴崎町の支那飯屋で食事し吉原仲の町を過ぎて麻布にかえる。

5月15日、夕刻オペラ館に行く。閉場後歌劇の稽古をする。菅原君が鎌倉から来て器楽の練習をする。・・午前三時半稽古終わる。菅原君はわたしの家に立ち寄り一番汽車出発の頃まで歓談する。

5月16日、銀座第百銀行に赴き、オペラ館楽屋および表方のうち歌劇上演者に贈る予定の金額を引き出し、入谷の竹下氏の寓居に行き、その事務を執る。・・歌劇情話の稽古午前二時に始まり四時に終わる。アルト永井智子を車で上野の家に送って麻布にかえる。・・祝儀は一人金5円づつ、70人総額350円なり。

5月17日、歌劇葛飾情話初日である。午前十一時に起き浅草に馳せる。菅原君は楽座に立って指揮をし、正午情話の幕を上げる。意外の成功であった。器楽の演奏は悪くない。テノール増田は情熱をもって成功し、アルト永井は美貌と美声で成功し、ソプラノ眞弓は誠実をもって成功した。・・演奏後小川丈夫と蔦屋に一酌してかえる。午前三時。

5月18日、情話二日目である。朝十一時オペラ館に着く。夜十時菅原君とともに中西で一茶し地下鉄で帰る。

5月19日、疲労はなはだし。眠りから覚めればすでに午後すぎている。いそいでオペラ館に行く。夜菅原アルト永井とともに帰る。

5月20日、朝十一時浅草に着く。この日情話四日目である。菅原君午後に来る。

5月21日、情話五日目である。正午からオペラ館に居た。・・閉場後舞踏家高清子および永井智子菅原君とともに森永で飲む。わたしは大酔して新橋の旧事を語る。

5月22日、観客席に杉野、杵屋彌十郎坂東蓑助河原崎長十郎がいるのを知る。閉場後森永で会合する。帰途高清子を今戸の家に送り竹久よし美らとともに仲の町を過ぎる。

5月23日、朝十一時からオペラ館に居る。この日で七日目。情話演奏後菅原君および男女俳優とともに中西喫茶店に於いて、新聞記者の一団と会談する。

5月24日、正午からオペラ館に居る。菅原君は連日鎌倉から来て、昼夜3回指揮棒をふること今日まで怠りない。午後幕間に高清子高杉妙子および菅原君とともに伝法院の庭を歩み写真をうつす。ソプラノ眞弓明子から楽屋内の噂を聞いて一笑する。

5月25日、正午からオペラ館に居る。

5月26日、終演の日である。正午からオペラ館に居る。館主大入り祝いの赤飯を座員に配布する。閉場後館主に招かれて情話関係者一同とともに千束町洋食屋大坂屋で飲む。菅原君は鎌倉から三鞭の古酒ひと瓶をたずさえてくる。この日少壮の作曲家数人に逢う。みな菅原君の門弟である。大坂屋から楽屋にもどり三階の女優部屋に横臥して暁を待つ。舞台の方から総ざらいの音楽が聴こえてもの哀れである。

5月27日、午前四時半菅原小川の二氏とともに車で永井智子を谷中に送った後、墓地を歩み上田柳村先生の墓を拝す。新橋停車場で菅原君と別れ帰宅。一睡してのち薄暮オペラ館に行けば菅原君はすでに居た。森永茶店で会って永井智子のためにPCL映画(東宝の前身)の筋立てをつくることを論議する。

5月28日、過労の結果健康も気づかわれたので土州橋の病院に行き診断を請い、ホルモン注射をした。オペラ館に行き舞群の道子絹子の二人を連れて森永で夕食をする。・・楽屋口の路地に出て閉場の時を待つ。永井智子高清子小川丈夫の3人とともに円タクで銀座富士地下室に行く。菅原安東その他の諸子がいた。この夜葛飾情話蓄音機吹込みの手順を決定する。全曲短縮のことは菅原安東の二君が行う。また吹込みの歌手は永井智子で、その他はみなオペラ館専属の者ではない、ヴィクター会社専属の者が行う。富士地下室を出て汁粉屋梅輪で少憩し、一同菅原君を烏森停留場に送ったのち、わたしは一同とともに上野停車場に行き、路傍の寿司屋で一酌した。円タクを雇い智子と清子をその家に送り、玉の井を歩み、また車で家に帰る。午前二時半だった。

5月29日、日が暮れるのを待ちオペラ館に行き女優歌手2-3名とともに森永で食事する。

5月30日、午後オペラ館に行き永井智子とともに森永で食事する。菅原君情話吹込みの用談のため来る。オペラ館閉場を待たずに菅原君は永井とともに築地劇場に女優東山(千栄子)を訪ねるといって去った。わたしは十時過ぎ銀座富士地下室に行くと女優竹久よし美が作者小川氏とともに居た。しばらくして菅原永井が来た。一同銀座を歩み芝口の酒舗金兵衛に行って飲む。竹久永井の二女優をその家に送ってかえれば午前二時だった。

5月31日、浅草に行き永井と森永で夕食をとる。オペラ館閉場後高杉妙子とまた森永でお茶を飲む。・・この夜十二時から浅間神社の賽日なのでオペラ館けいこの終わるのを待ち踊り子2-3人とともに行って賽銭をあげる。家に帰れば空はほのかに明るい。

 

菅原明朗ホームページ葛飾情話