荷風マイナス・ゼロ (53)

劇団民藝 

 

銀座、墨東、浅草、オペラ館とつづいてきた荷風の遍歴は、葛飾情話の上演をもって頂に達しそれ以降は滞留と戦争の進行にともなう窮迫の道をたどっていく。情話そのものは文学的達成というよりパトロンの道楽に近いものだったが、そこから映画製作への発展がありえた。これまでの足取りで明らかなのは、世間の印象とちがう荷風のコミュニケーション力の高さだ。しかし時局にふさわしくないとの一語で、その道は閉ざされてしまう。銀座浅草の往復はつづいたが、残されたのは焼亡に向かう日々となる。

 

昭和13年(1938)

 

6月1日、「この夜閉場後永井眞弓の二人と銀座不二地下室に至り安東氏と会見しレコード吹込の相談をなす。帰宅後映画筋立をなす。」

6月2日、「オペラ館閉場後永井菅原の二氏と中西喫茶店に会合し映画構成の相談をなす。」

6月4日、「PCL会社映画筋書を執筆す。」

6月5日、「午後に起出で映画の筋書きを草す。」

6月7日、「PCL会社映画筋立の事は事情おもしろからざるをもって執筆を中止することに決す。」

6月8日、「菅原安東智子等銀座に在りときき十時頃富士あいす地下室に至る。PCL筋書き執筆の事を勧告せらる。」

6月9日、「再び思い直して映画筋書を草す。題して浅草交響曲となす。」

6月10日、「終日映画筋書をつくる。」

6月11日、「菅原君に浅草交響曲筋書を交付す。」

6月17日、「夕六時PCL会社員および菅原君と築地海岸の某亭に会談す。」

6月21日、「永井智子と映画用主題歌のことを語る。」

6月24日、「PCL映画交渉中止の旨を内容証明郵便にて先方へ通達す。」

6月29日、「葛飾情話吹込み礼金100円也この日入手。」

 

7月1日、「丘道子(オペラ館女優)の情人村田某常盤座俳優招集令を受けたりとて、道子涙にくるるさま見るに忍びず。」

7月5日、「偶然菅原君に逢う。この日葛飾情話蓄音機円盤でき上りたれば余を招きて聞かせたしと思い午後余が家に電話をかけしなりと言う。銀座コロンバンにてオペラ館の永井眞弓の来るを待ち合わせ尾張町山野楽器店に至り、同店楼上に設置せられたる機械をかりて円盤を聴く。」

7月7日、「都下飲食店喫茶店の蓄音機夜十時以降鳴らす事を禁ずと云う。」

7月10日、「(浅草)公園内外の飲食店夜十二時限り閉店の厳命下りし由。また百貨店中元売り出しの広告を禁ぜられしと云う。いよいよ天保改革当時のごとき世とはなれり。」

7月11日、「本年四五月ころより銀座辺の飲食店に入れば時局を論談する酔漢多く、また街上にもさまざまなるポスター貼り出され生活の興味を害すること少なからず。しかるに浅草公園に至れば遊歩の男女いづれも愚鈍なる顔付にて時局の如何を解する事能わざるがごとき様子なり。森永の店に来る客には芸者または妾風の女をつれたるもあり。女事務員らしきものの休日を楽しむがごとく見ゆるもあり。花月常盤座あたりの女優幕間に楽屋を出で男優と相語れるもまた少なからず。余はのどかなるこの光景を見て晩餐を喫すれば麦酒の酔いもおのづから楽しき心地せらるるなり。」

7月12日、「PCL会社の依頼により余は六月上旬浅草交響曲と題する音楽映画の筋立をなし一編の物語を草して之を同社社員に渡したり。然るところこの程に至り政府の映画製作に対する取締いよいよ過酷となり、軍事奨励に関係なき映画は到底製作の見込なき由にて、余のつくりし映画筋立は無用となりしと云う。又蓄音機会社の人のはなしをきくに、蓄音機に使用する針は鉄材制限のため製造すること能わず、之がためレコードの機械円盤等の売行も追々減少するに至るべしと云う。」

7月15日、(オペラ館振付齋田英二郎の語ることとして)今日浅草の劇場でジャズ音楽またジャズ舞踏と称するものはいづれも亜米利加の寄席で行われる舞踏の楽譜を取り寄せそのまま模したものだ。今日一般にこの種類の舞踏を劇場で興行するときこれをレビューという。しかしレビューの名称は昭和三四年以後普及したもので、それまではただ少女歌劇またはヴォードヴィルと称えていた。ジャズ音楽の名もはじめて大正六七年ころ米国から伝来した当時にはその名称はなく、フォックストロットと称していた。この舞踏の流行は東京よりも京阪がその先駆だった。大正十二年九月の震災で東京は焦土となったころ大阪ではすでに公開の舞踏場ができ、ジャズ音楽の奏楽にあわせて今日流行するような舞踏をするものが少なくなかった。劇場興行では初めは宝塚少女歌劇が起こった。次いで大阪の河合ダンスまた次いで大阪少女歌劇の団隊が組織された。しかし当時はまだレビューと称する言葉は聞かなかった。(荷風注 欧米のレビューは日本で行われるような小規模のものではない。例えばパリのフォーリー・ベルジェールなどで古くから興行されたものは管弦楽もまたジャズ音楽ではなかった。)日本で興行されるものは米国で舞台の小さな寄席で行われるものの模倣だ。東京では震災後浅草松竹座で興行された松竹少女歌劇がある。次いでカジノ・フォーリーの一座があった。玉木座の舞台で演芸をした一座もあった。ジャズ舞踏の流行に圧倒されて浅草公園では安来節の踊り(どじょうすくい)は全くすたれた。

震災前浅草金龍館で興行したオペラ一座は帝国劇場歌劇部の廃止とともにその俳優が演じたもので、これはジャズ舞踏とは別のものだ。

7月16日、「永井菅原掛下PCL社員の諸氏と公園池の島の汁粉屋立花屋に憩う。」

7月17日、「歌劇の筋立をなす。」

7月18日、「朝郵便局に至りて税金を納む。一回分の金高294円余なり。戦禍憂うべし。」

7月28日、「舞踊教授齋田氏より日比谷辺劇場レヴュウの振付につき警察の取締漸く過酷となりし由をきく。」

7月31日、「今年の夏は何となく気力なくいまだ蔵書を曝さず。」