荷風マイナス・ゼロ (54)

1940年までの日本軍占領地域

昭和13年(1938)

 

8月1日、「夜オペラ館に至りカフェージャポンの女給いち子とともにかえる。・・いち子わが家に宿す。」

8月5日、「またいち子と田原町電車停留場にて偶然邂逅す。・・いち子また一泊す。」

8月6日、「数日前よりネオンサインその他屋上屋外の燈火禁止の令あり。」

8月7日、(オペラ館ファンの俳人藤忍忍洞による浅草オペラ館観賞会と記す印刷物の抜粋)「・・我国オペラ最初よりのスターとして技神に近き岩間百合子を初め古くより有名なスター松山浪子男優ではカヂノフォーリー時代よりその妙技をもって鳴らしているエノ健などの大先輩佐藤久雄および軽妙無比の独技を有する川公一、原田勇鶴岡健織田重夫老役に妙を得たる深澤恒造張りの朝香務ダンスの妙手舎利安一等あり歌手としてはかつてこの館にて売り出したる松島詩子丸山和歌子等をしのぐ牧和江大井律子および名歌手羽衣歌子あり若き女優群にはダンス日本舞踊芝居両方面に優れたる柴野治子を始め日本舞踊の上手な石原ナナ子および上村とし子星清子石田フミ子霧島信子山本美代子瀬川京子等ありその他別格加入として小村元子泉淳子等の腕達者もそろい多士済々です・・」

8月8日、「水天宮裏の待合叶家を訪なう。主婦語りて云う。今春軍部の人の勧めにより北京に料理屋兼旅館を開くつもりにて一個月あまり彼の地に赴き、帰り来たりて売春婦3-40名を募集せしが、妙齢の女来たらず。かつまた北京にて陸軍将校の遊び所をつくるには、女の前借金を算入せず、家屋その他の費用のみにて少なくも2万円を要す。軍部にては1万円位は融通してやるから是非とも若き士官を相手にする女を募集せよといわれたれど、北支の気候あまりに悪しきゆえ辞退したり。北京にて旅館風の女郎屋を開くため、軍部の役人の周旋にて家屋を見に行きしところは、旧二十九軍将校の宿泊せし家なりし由。主婦はなお売春婦を送る事につき、軍部と内地警察署との連絡その他の事を語りぬ。世の中は不思議なり。軍人政府はやがて内地全国の舞踏場を閉鎖すべしと言いながら戦地にはさかんに娼婦を送り出さんとす軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし。」

8月8日、「街上ネオンサインの光なきをもって月光の青く冴えわたりて高き建物の半面を照らすさま、また街路樹の茂りのその影を路上に横たうさますこぶる趣あり。ネオンサインの禁止は軍人悪政中の悪ならざるものと謂うべし。」

8月11日、「オペラ館作者淀橋太郎招集せられ十四日浅草を去ると云う。」

8月26日、柳亭種彦の田舎源氏序文を抜粋する。日記ではたびたび種彦と為永春水への傾倒が記されるが、二人とも天保改革で処罰されている。

8月29日、「夜浅草に行きオペラ館の婦女とともに森永の放送器にて菅原君作曲の歌を聴く。歌は永井智子なり。大坂ピーケーより放送するなり。」

 

9月5日、「新橋妓家の主人某に逢う。戦争以来昼遊びの客多く芸者相応にいそがしき由なり。」

9月6日、「噂の噂 神田須田町の街頭に広瀬中佐の銅像とともに杉野兵曹長銅像の立てることは世人の知るところなりしかるに杉野は戦死せしにあらずその後郷里浦和に居住しこの程老齢に達し病死せしと云う杉野翁の孫なる人物浦和にあり近隣の人々も杉野翁のことをよく知れりと云う。

小説生きてゐる兵隊作者石川達三中央公論社雨宮庸蔵その他一名禁固四個月猶予三個月の宣告を受く。」

9月12日、「この日より十六日まで禁燈の令あり。」

9月16日、「禁燈の四日目なれど六区の人出は平日のごとし。」

9月20日、「歌詞草稿を菅原君に郵送す。」(冬の窓と名付けられ戦中ひそかにもった音楽会で歌われる。)

9月20日、「永井智子家庭の事情を告ぐ。」(永井菅原は既婚者だったが、葛飾情話をつうじて恋愛する。)

 

10月1日、「小売商店夜十時限り閉戸の令出ず煙草屋酒屋も定刻に閉店す飲食店は十二時まで。」

10月3日、「商店法実施の後なれど六区界隈は飲食店多ければ十二時までは街上明るく人影あり。」

10月8日、「虎ノ門その他の辻々に愛国心扇動の貼札またさらにニ三種加わりたり。

・・玉の井広小路に至るに、町会その他の旗持ちたる人々歩道に居並ぶこと七八町に及べり。戦死者の葬式を送るなりと云う。」

10月16日、「燈刻尾張町富士あいすに飯す。今秋八九月ころより料理はなはだしく粗悪となりしに係わらず価は一割近く高くなれり。」

10月20日、(送られてきた同人誌に荷風攻撃の文があるのを見て)「筆禍の来るも遠きに非ざるべし。余平生すでに長生きし過ぎたりと思えるおりからなれば種彦春水の覆轍を踏むこといまさら悲しとも思わざるなり。」

10月23日、「夜浅草に至り今半に飯す。国際劇場入り口に祝広東陥落という幕張りたるを見る。」(前日広東が占領された。)

10月24日、「松竹座前にて円タクに乗る。浅草橋を渡るころ運転手の言うよう、先生をお送りするのは今夜で四度目です。葛飾情話は二度見ました。」

(この日のちに短編勲章のモデルとなる退役軍人である弁当屋の写真を楽屋で撮る。)

10月25日、「秋来小説の稿を起こさんと思う心あれど、世の風潮を考慮すれば筆を拘束せらるるところ少なからず。葛飾情話執筆以後今もって机に向かわず、読書と旧著の校訂に無聊を慰むるのみ。」

10月26日、「区役所横裏の喫茶店ロスアンゼルスというに入りて店内備え付けの蓄音機にてドビッシイの歌劇聖セバスチアンの殉教を聴く。十一時オペラ館稽古場に少憩し女優松平および朝鮮人韓某とともに車にてかえる。浅草公園六区に出る芸人の中には朝鮮人少なからず。ことにオペラ館の舞台にては朝鮮語にて歌をうたうほどなり。日本人の芸人も東京生まれのものよりも地方の男女多く、十人の中五人までは北海道および秋田青森の産なり。今オペラ館の楽屋についてこれを見るに女優竹久よし美松平まり子石田文子松山浪子のごときいづれも北海道の生まれなり。まり子は秋田なり。文芸部の小川氏は朝鮮京城の生れなり。声曲家増田晃久は米国に生まれ広嶋にて人となりたり。女優木村時子は仙台の生まれなり。大道具の職人四人の中二人は大坂者なり。小道具方一人も京阪の者なり。この一例によりて見るも純粋の東京人は年とともに減少滅亡し行くもののごとし。」

(人気者の清水金一堺駿二は東京生まれ。清水は下町言葉ミッターシャーネーを売り文句にした。)

10月27日、「日比谷丸の内辺提灯行列にて雑衆す。」

10月31日、「夜初更銀座に往き銀座食堂に飯す。街上には戦勝に酔える民衆学生放歌横行す。・・

この頃銀座街上を歩む時または電車に乗る時著しく目立ちて見ゆることは、四十歳以下の日本人の顔立ちのいよいよ陰険になり、その態度のますます倨傲になりしことなり、安洋服を着て中折れ帽目深にかぶりしものはいづれも刑事のごとくに見ゆ。しからざるものは新聞記者のごとし。私立大学の制帽かぶれる書生の顔の田舎くさきは電車の車掌また円タク運転手と異なるところなし。しからざるものは手におえぬ無頼漢なり。日本全国とまでは行かずとも、東京の良風俗は大正十二年の震災以後年々に滅び行きて今は全く影を留めざるに至りしなり。」

 

南京陥落につづいて日本軍は1938年5月徐州、10月武漢、広東を占領した。しかし国民軍のゲリラ戦略に攻めあぐみ、平型関や台児荘、武漢では大きな損失をこうむった。また攻めても中国政府はさらに重慶に撤退し、主力をつかみあぐねた。日本軍の進行はそこでストップし、泥沼に入りこむことになる。遠距離爆撃と傀儡政権樹立で打開をはかるが効果はなく、補給路いわゆる援蒋ルート切断のためさらに戦線を拡大して進退きわまる。