荷風マイナス・ゼロ (50)

中央 清水金一 右 堺駿二 シミキンの拳闘王(1947 松竹) 二人はオペラ館のスタアだった。

 

昭和13年(1938)

 

1月2日、11時すぎ浅草公園を過ぎるとき仲見世はじめ区役所通りの商店はまだ灯火を消していなかった。織るように人が行く。浅草広小路北側に並んだ屋台店にも多くの人が飲食している。去年あたりから浅草の繁華は著しくなったようだ。

1月3日、浅草公園に行く。仲見世から興行街いたるところ群衆が雑踏している。

1月4日、午後いち子が来る。ともに銀座富士アイスに行く。

・・銀座四丁目の酒場に入る。ひとりの女給に最近の流行歌をたずねると左のような歌を低く歌った。

日陰にも薔薇は咲く 赤く赤く燃えて 裏町の空だとて 晴れた日は青いのさ けがれ果てたこの身だとて 若い血はあるのさ 時にゃまことの恋に 泣けてしまうのさ

1月6日、オペラ館文芸部員川上典夫氏の手紙を受け取る。ただちに返事を送る。

1月8日、浅草オペラ館立ち見。

1月14日、夜浅草で食事する。寒夜にもかかわらず興行町の群衆は平常のようだ。オペラ館に入って見ると踊り子女優は風邪で休場する者が多い。

1月15日、昨年冬から雨なく寒気がきびしいため風邪肺炎にかかるものが多いという。・・例のごとく浅草に行き夕飯を食べ銀座に至る。偶然(オペラ館)作曲家菅原氏に逢い地下室に入る・・。

1月18日、オペラ館立ち見。

(日本政府は国民政府を相手にせずと声明を出す。)

1月19日、ヴァン・メールシの小説1914年の入寇をひもとく。ドイツ軍を日本兵に取り替え北フランスの野を中国に取り替えて読んでいくと惨憺の情がいっそう身に迫る気がする。

1月21日、午後三菱銀行に行き付近の郵便局に税金150余円を納めて帰る。

1月25日、夕方銀座で食事し新宿ムーランルージュの演技を見る。この一座は昭和五六年のころから始まったと番組に記されていた。

1月26日、オペラ館にその作者川上氏を訪ねたが不在だった。カフェージャポンに入って茶を飲む。閉店の時刻を待ち女給数名と日本館裏手の支那蕎麦屋品芳楼というのに行く。男女の芸人女給などでほとんど空席がないほどの混雑だった。

1月27日、浅草ちん屋で食事しオペラ館で少し休んで銀座に行き富士地下室に入る。

1月30日、その筋のお達しで廓の芸者も愛国行進曲を弾かなければならないが、三弦で弾けばなんの面白味もない。

1月31日、煙草またまた値上げとなる。

(この月のあいだ南京の虐殺はつづいた。「上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。」石射猪太郎外務省東亜局長1938年1月日記)

 

2月1日、国内各所の帝国大学教授が多数捕縛された。(ふたたび人民戦線事件)

2月2日、新宿ムーランルージュを立ち見して帰る。

2月4日、(銀座)ハッピーランドで飲む。女給に恵美子というのがいてかつて松五郎一座の女優だったという。小芝居楽屋の事情を語る。

2月5日、浅草に行きオペラ館に入る。半裸体の踊り子の姿は老いの眼をはなはだ慰めてくれる。

・・下女を雇わず自炊の生活をすること早くも満一年となった。

2月9日、新宿ムーランルージュ立ち見。

2月16日、浅草に行って見ると昨日来の春の暖かさにセリ売りの男の声も活気づいている。・・オペラ館で少し休んでのち玉の井に行ったが春の日はなお暮れない。

2月17日、中央公論社佐藤氏が来て中国戦地視察を勧められる。

2月22日、鎌倉の菅原氏がわたしのために旧ムーランルージュの作曲家黒崎氏を紹介した。

2月24日、大勝館に入りハルピンショウ一座の舞踊を見、銀座で食事して帰る。防火演習で汽笛人声犬の声が絶える間もない。

2月25日、夜新宿ムーランルージュを立ち見し銀座富士地下室に至る。

2月27日、夜川上典夫が来て話す。誘われてカフェージャポンで飲む。夜11時川上とともにオペラ館の舞台稽古を見る。館主田中旋太郎作者堺某(正章父?堺駿二清水金一とのコンビで人気があった。11月3日の日記にも登場する。)小川丈夫俳優清水金一その他の人々と親しく話して2時ごろ帰る。

2月28日、玉の井の知った家を訪ねる。その家の女が茶を汲みながら、今日検梅場に行ったら厚生省のお役人とやらどれもまだ30代の若い男が12-3人来て検梅の現場をのぞきこみ、中にはくすくすと笑いながら語り合っている者もいた。この里に身を沈めた女は恥というものを知らないと思っているようだけれど、役人面してあまり人を馬鹿にするのは人情知らずのふるまいだと憤りをもらしていた。