荷風マイナス・ゼロ (69)

昭和16年(1941)

 

10月2日、風呂桶屋来る。新しい風呂桶は130円であるという。

10月3日、銀座教文館で倉払いの古本を陳列即売すると聞いたので午後行ってみる。買うべきものなし。電車で浅草に行く。観音堂の横手銀杏の樹の下に露店商人が馬鈴薯を見事に細く切り蕎麦のようにする秘伝の薬を売る。来年から麺麭にも蕎麦饂飩にも馬鈴薯を混ぜるようになると商人の口上である。

10月4日、芝口の牛肉屋で食事する。一人前3円税45銭。

10月5日、オペラ館昼間から大入りで大入り袋1円80銭だと踊り子の語るところ。

10月6日、(慰問袋のはなし:老人のはなしでは日露戦争まで慰問袋はなかった。今回の戦争は去年あたりから強制的となった。女学校では女生徒に住所氏名を記入させる。兵士と手紙写真を交換するものもある。除隊となった兵士は女子を訪問し銀座で会うものもいる。銘酒屋カフェーの女は客にしようと慰問袋を利用して誘惑するものもあるという。)

10月12日、岩波書店勘定左のごとし。

金130円也 おもかげ 第四刷 1000部

10月15日、防空演習で近隣の家はみなその準備をし水桶高箒などを門口に並べていた。しかしこの用意をしないところはわが家一軒だけ。わたし一人で何もできないからである。今年は防空令違反で厳罰に処されるかもしれないと胸中ひどく不安を感じる。

・・午後丸の内から浅草に行ってみると小春の天気がよいためか、人の出盛ること日曜日のようである。行き来の人の中には投島田に素袷半纏引掛帯というような風俗の女もいた。博徒遊び人のかみさんであろうか。浅草ならでは見られない風俗の女を見れば何ともなく一種の慰安をおぼえるのもおかしい。

10月16日、オペラ館踊り子田毎小田の二人が公休日だからといって遊びに来た。電話で東京日日社内移動劇場事務所小川丈夫を招き芝口の今朝に行って晩餐をする。(移動劇場とは巡業慰問の斡旋か?)

10月18日、この日内閣が変わって人心さらに恟々とおそれている。日米開戦の噂がますます盛んである。(近衛から東条になった。8月に内閣研究機関が日米戦争必敗を報告し、近衛は撤兵を言い出し東条はこれに反対した。)

10月20日、隣のかみさんが来て隣組で昨日合議して先生のところは女中も誰もいない家なので今度の防空演習には義務もなにもないものとして除外しました。

10月21日、(銀座で)亀屋相模屋など食料品を売る店には山の手の奥様令嬢らしき女が出入り多数である。その服装を見ると帯はみな金襴に金銀の縫箔をしている。赤地に金銀の孔雀の尾を縫い取りにして衣服は一面に赤い蔦の葉を染めたようなものを平気で着ているものもいる。数年前のカフェー女給の華美姿にくらべて一層毒々しくきらびやかになっている。浅草興行場の女芸人の舞台衣装といってもなお三舎を避くべきものが遂に良家の婦人の外出の衣服となった。金銀でぴかぴかひかるものを好むこと現代の日本人ほどはなはだしきはないだろう。男は勲章まがいの徽章その他を胸につけ、女は模造の蜀江錦でなければ帯にしない。これは軍人執政の世の風俗である。外形すでにかくのごとし。その性情趣味にいたっては推して知るべきのみ。

10月22日、今日は世間が騒がしく夜は暗闇になると思いのほか日の丸の旗があちこちにひるがえり夜も暗くはならぬ由。どこやらにお嫁入りのお祝い事があるためだと。(三笠宮結婚)

・・日本橋に出て八木長で鰹節を買う。鰹節も近いうちに米同様切符制になるとのうわさがさかんなので万一に備えようとするのである。わたしは今日まで鰹節のことなど念頭においたことがなく洋風の肉汁があれば事足りるとしていたが、今年春ごろから食料品何にかぎらず不足品切れとなり、ここにはじめて昔の人が飢饉の用意に米と鰹節と梅干があれば命はつなげると言ったことが真実らしいと知ったのである。

10月24日、旧帝国劇場専務に逢う。関西に行くところだが汽車の切符がなかなか買えずやっとのことで三等の切符を得たという。

10月28日、芝口の金兵衛に行くと宵の口まだ七時にならないうち配給の魚介が少ないため料理ができず客を断っていた。塩鮭と味噌汁で茶漬け飯を食べる。・・このごろ役者連は自動車がないためいづれも遠方から雑踏の電車に乗って木挽町に通うという。

10月29日、谷町電車通りの焼き芋屋は久しく休んでいたが芋俵の配給があったといって早朝からふかし芋を売り出す。買おうとするものが行列していた。

10月30日、午後浅草公園に行きオペラ館踊り子大勢と森永で夕飯を取り汁粉屋土筆で汁粉を食べる。砂糖の不足を補おうと西瓜糖また蜂蜜などを用いるためか、汁粉の甘味が一種異様なのも可笑しい。

 

11月8日、世の噂を聞くと今年九月以来軍人政府は迷信打破と称し太陰暦の印刷を禁じ酉の市草市などのことを新聞紙に記載することをも禁じたという。今夜十二時から一の酉であるが新聞には出ない。十月中日本橋べったら市のことも新聞紙は一斉に記載しなかったという。清正公の勝ち守りも迷信だろうし鰹節を勝武士などと書くことも御法度になるべきか否かと笑う人もいる。

11月14日、(日米開戦を予期し貯水池を掘った残土を偏奇館近くに勝手に捨て、通学路整地のため寄付したと言う業者に)これはさながら満州の人民が張作霖のために苦しめられているので救うと称して日本の軍人が張を殺し奉天府を占領した策略と揆を一にするものである。美名の下にかくれて不義をおこなうのは今や天下の通弊となった。

11月19日、(おもかげをドイツ語に翻訳したいとの申し出に)わたしは拙作が独逸人に読まれることを好まないので体よく避けて断ることにした。

11月22日、オペラ館に行くとこのごろ吉本興行部から転じてオペラ館踊り子となったものがいた。市兵衛町一丁目スペイン公使館下のアパートに住むといい帰路が同じなので共に帰る。芝口で市電に乗り換えするときかつて玉の井にいた女に逢う。銀座裏エトワールの女給になったといい名刺を出した。この夜は何やら意外なことに遭遇したような心地がした。

11月23日、銀座通り食料品店の店先にその筋からのご注意により行列しないで下さいという貼り紙を出していた。この日は日曜日なのに松喜食堂その他は灯を消し戸を閉めていたのもあった。蕎麦屋にも饂飩がないという。

11月25日、去年十二月ころ折々訪ねてきたある会社の女事務員が数日前に本郷農科大学裏弥生館というアパートから電話をかけてくることが再三だったので銀座で夕飯を食べたあと行って訪問する。このごろは根岸また下谷池ノ端の待合に出入りすると語った。

11月28日、隣組のおかみさんが木綿手拭い配給の切符をもってきて来月三日ごろ銅鉄器具がいよいよお召上げになると語って去った。

11月29日、明後日から物品税がほとんど倍額になるため今日明日中に物を買おうと銀座日本橋辺りへ人々が朝のうちから押しかけると、電車車掌のはなしである。

11月30日、洗濯屋の男が勘定を取りに来て言う。隣の酒屋の息子十七才が徴用令ですでに連れて行かれた。二年間たたなければ還れない。還ればつづいて徴兵に行くと。

 

12月1日、(谷崎潤一郎が断腸亭の刻印を贈る。)

12月2日、今月から電灯メートル六割節減という。街頭の灯も薄暗く家の内の灯火も力なげである。

12月4日、牛肉屋今朝に入ると十一月末から肉類がないといって蛤鍋を出すという。去って金兵衛に入る。魚類が少ないので鰻の蒲焼を兼業とするという。鰹節海塩が先月来品切れとなったという。わたしが砂糖がなく困難と告げるとおかみさんは蓄えておいた砂糖二斤ほどを惠贈してくれた。謝するに言葉なし。

12月6日、銀座食堂で食事する。定食2円50銭に付税二割50銭。晩餐3円に付税三割90銭で受取証に客の署名を請う。食後日本橋に行く。鰹節屋では朝九時から十時ころまで鰹節を売るという。海苔屋葉茶屋乾物屋の店先はどこも買い手が行列をしていた。

12月7日、この冬はガス暖炉も使用できなくなったので、火鉢あんか置炬燵などひとつずつ物置の奥から取り出し四畳半の一間に昔めいた冬支度がようやくととのってきた。これらの器具は二十余年前あるときは築地あるときは新橋妓家の二階、またあるときは柳橋代地の河岸で用いたもの。今日偶然これを座右に見る。感慨浅からず。

12月8日、小説浮沈第一回起草。

・・日米開戦の号外出る。帰途銀座食堂で食事中に灯火管制となる。街頭商店の灯は追々に消えていったが電車自動車は灯を消さず。省線はどうであろう。わたしが乗った電車は乗客が雑踏していたが中に黄色い声をあげて演説するものがあった。

12月9日、開戦の号外が出てから近隣は物静かになり来訪者もいないので半日心やすく午睡することができた。

12月11日、日米開戦以来世の中は火が消えたように物静かである。浅草辺りの様子はどうだろうと午後行って見る。六区の人出は平日と変わりなくオペラ館芸人踊り子の雑談また平日のごとくで、不平もなく感激もなく無事平安である。わたしのような不平家の眼から見れば浅草の人たちは堯舜の民のようである。

12月12日、開戦布告とともに街頭電車その他いたるところに掲示された広告文を見ると、屠れ英米我らの敵だ進め一億火の玉だとある。ある人はこれをもじり昔英米われらの師困る億兆火の車と書いて路傍の共同便所内に貼ったという。現代人の作る広告文には鉄だ力だ国力だ何だかだとダの字で調子をとるくせがある。まことにこれ駄句駄字というべし。・・向島玉の井を歩く。両所とも客足は平日と異ならないという。

12月16日、牛肉屋松喜で食事をしようとするとその後引きつづき牛肉鶏肉ともに品切れである。十八九日ころには鶏肉くらいは配給されるだろうと下足番のはなしである。

12月22日、世上の風聞によればかつて左傾思想を抱いた文士三四十人が徴用令で戦地に送られ苦役に服しつつあるという。その家族で東京に残るものはこのことを口外することを禁じられているという。また戦地のどこに居てどんな苦役に服しているか、一切秘して知ることが出来ないという。また徴用令で引致されたものは二年後にならなくては放免されないという。この危難に遭遇した文士は誰かは聞き洩らした。察するに村山知義武田麟太郎一派のものであろう。(村山は前年逮捕獄中)

12月29日、町の辻々には戦争だ年末年始虚礼廃止とか書いた立て札があるが銀座通りの露店には新年ならでは用いるさまざまな物も並べられていた。も組の横町にも注連飾りを売るものがいた。花屋には輪柳福寿草も見えた。・・灯火執筆毎夜怠りなし。

12月31日、朝令暮改の世の中は笑うべきことばかりである。・・先日は唱歌蛍の光は英国の民謡だから以後禁止と言い伝えられたがこれもたちまち改められ従前どおりとなった。・・寝ようとするとき机上の時計を見ると十二時五分を過ぎたばかりだったが除夜の鐘の鳴るのをきかない。これまた戦乱のためであるか。恐るべし恐るべし。