荷風マイナス・ゼロ (68)

独ソ戦の推移(7月から12月)

昭和16年(1941)

 

7月2日、午後大塚という怪しげな女が電話をかけてくる。今年正月五六日ころだったと思う。かねてから知っている派出婦なにがしの紹介で夜九時ころはじめて訪ねてきた女である。自分で語るところによればひと月100円である人の妾となり、大塚あたりのアパートに居住し毎日丸の内のある会社に通勤しているが、旦那が来るのは月に四五回でその他の日は勝手だからと言って、初めての夜も十一時近くまでいたが、この三月ころふとまた訪ねて来た、会社の事務員は月給わずか四十五円でそれ以上になる見込みもないので、二月かぎり辞めてしまいましたから、この後は昼でも夜でも電話さえかけてくださったらいつでも参ります、旦那には以前通り会社へ通勤していることにしてありますからと、自分から先に帯を解き捨て、翌日は夜も十時過ぎまでまめまめしく働いてのちまた一寝入りして立ち去った。その後引きつづき四五月中には月に三四回きて泊って行った。実家は甲府の商家といいそれほど貧しい様子もない。なぜ東京に来て私娼同様の生活をしているのかほとんど理解できない。・・震災からこのかた世の風俗は乱れ乱れてこの二三年ことに若い女が大胆になったことはただただ驚くほかない。

7月3日、昼ごろ米屋の男が配給米を持ってきて言う。お米はだんだんわるくなるばかりです。これまでは精白米六分に外米四分のところこのたびは外米六分に日本米は四分、しかも外米の品質もいよいよわるくなり、かの産地では鶏や豚に食わせる下等米で人間の食うものではないという話です。じきに虫がつきますから五升だけもってきました。うんぬん。

7月5日、夜に入って四隣のラヂオが喧噪きわまる。毎年暑中となれば夕方六時日がまだ没しないうちから夜は十時過ぎまで軍人らの政論田舎訛りのラヂオドラマ浪花節など止む時がない。驚くべき都であり実に住みにくい国というべきである。

(備忘)

一 毎月一日および七日を奉公日とか称して酒煙草を売ることを禁じ、待合料理屋を休みとしたのは昭和十四年七月七日を始めとする。その原因は戦地から帰ってきた士官が発狂し東海道列車中で剣を抜き同乗した車内の旅客を斬ったことがあった。また浅草公園で兵卒が酒に酔い通行人を傷つけたことがあったため、軍人への申し訳にこのような禁欲日を設けるにいたったのである。以後この日は芸者と女給の休業日となり、熱海をはじめ近県の温泉旅館は連れ込みの男女で大いに繁昌するようになった。ついに十五年四月ころより温泉場の手入れとなり新婚の夫婦まで警察署に拘引される奇観を呈している。

一 円タクが遠方に行かず夜十二時過ぎは客を断るようになったのは十四年三四月ころよりである。

一 燈火管制というのは昭和八年七月ころから始まる。

一 煙草二割値上げとなる。ヒカリ11銭だったのを13銭とした。

一 十二月一日から市中飲食店は半搗き米を炊いて客に出す。

一 舶来の酒化粧品ほとんどなくなる。十二月中。

一 市中自動車夜十一時限りとなる。

一 昭和十五年四月二日からカフェー飲食店は夜十一時限り。遊廓および玉の井亀戸は十二時までとなる。

一 六月から砂糖マッチ切符制となる。七月六日奢侈品製造ならびに販売禁止の令出る。

一 八月二日から市内飲食店夕飯は夕方五時から八時ごろまで。昼は十一時から二時ごろまで。この時間以外には米飯を出さない。九月一日から酒は夕方だけである。待合玉の井吉原あたり、夕方五時より昼遊び禁止となる。

一 十月より自動車は芝居の近所または盛り場浅草公園付近で客の乗降を禁じる。

一 十一月かぎり市中舞踏場禁止。

7月13日、腕くらべ 第六版の一 金300円也

7月15日、本年の税金が暴騰して一回分の金高145円75銭となる。一年分で金1783円となるわけである。戦禍いよいよ驚くべし。街頭の広告に経国イタリヤ婦人朝日など新しい雑誌の名が見える。洋紙節約のため新刊雑誌は出ないはずなのに奇怪千万というべきである。政党も解散させられたはずなのにこれも東方会建国会日本大衆党その他いろいろあって辻々に勝手次第に立て札を出している。このごろ共栄圏といい仏教圏というような圏の字が大いに流行している。今まで見なれぬ漢字を使いたがるのはどんな心でか。笑うべきである。

7月16日、数日来市中に野菜果実なく、豆腐もまた品切れで、市民が難渋しているという。銀座通り千疋屋の店頭にはわずかに桃を並べただけ。牛肉はすでになくこの次は何がなくなるのか。

7月17日、新聞に近衛内閣総辞職の記事が出たが誰ひとりその噂をするものもない。

7月18日、今朝の新聞では近衛一人が残って他の閣僚を更迭するだけと見える。初めから計算した八百長であるようだ。それはともかく以後軍部の専横はひどく世間は一層暗鬱になるであろう。(北進派松岡外相を除くための解散だった。)

・・わたしはつくづく老後に家庭なく朋友なく妻子がないことを喜ばないわけにいかない。模倣ナチス政治のごときは老後の今日わたしの身にはひどく痛痒を感じさせることもない。米は悪く砂糖は少ないが罪なく配所の月を見ると思えばあきらめはつくだろう。

7月20日、汽車の荷物混雑がはなはだしいため、西瓜の産地から西瓜を東京に送ることを禁じたので、今年は果物類すべて品切れのものが多くなるだろうという。

7月24日、下谷外神田辺りの民家には昨今出征兵士が宿泊する。いずれも冬支度なので南洋に行くのでなく蒙古かシベリアに送られるだろうという。三十代の者だけでその中には一度戦地に送られ帰還後除隊させられたものもいるという。市中は物資食料の欠乏がはなはだしいところからこの度の召集に人心はひどく恟々としているようだ。(老兵を北に送り、南進の準備をしている。)

7月25日、夜芝口の金兵衛で食事する。この店の料理人も召集され来月早々高崎の兵営に行くという。この夜ある人のはなしをきくと日本軍はすでに仏領インドシナ(40年9月から北部進駐していたが、41年7月南部にも進駐)と蘭領インドネシア(実際は1942年1月)の二か所に侵入した。この度の動員はこのためだろうと。この風説がほんとうに事実であるならば日軍のなすところは欧州の戦乱に乗じた火事場泥棒に異ならない。

(北部インドシナ進駐を理由に、米は対日石油輸出を禁止した。)

7月26日、野菜果実がいよいよ払底して八百屋の店を閉めるところが少なくない。牛肉に次いでこのニ三日鶏肉もなくなったという。

7月29日、夜店で買った一年有半中江兆民著を読む。幸徳秋水の序がある。

 

8月2日、浅草に行く。地下鉄で水兵が乱酔して係員と争うものがあるのを見る。憎むべきなり。

8月5日、谷町電車通りのパン屋にジャムを買いに行くと主人がいうには、パンにつけて食うものはいっこうに売れません。近頃のパンを買いに来る人は日に三百人くらいありますがジャムの缶は日に三つ四つ売れればよいほうであろうと。お客は以前とまったく違うようになった。これも時勢であろうと。

8月10日、東京市教育界疑獄の噂が高い。それ見たことかというような心地がして愉快を禁ずることができない。陸軍主計などの収賄沙汰があればいよいよ痛快である。当然あるべきはずだが秘して新聞には書かせないのであろう。

8月19日、虎ノ門から桜田へかけて立ち連なった官庁の門を見ると、今まで鉄の鋳物だったものがことごとく木製に取り替えていた。日比谷公園の垣は竹にしてあった。これは米国から鉄の輸出を断られたためのようで貧国の物資欠乏は察するに余りある。先日荒物屋に買い物に行くと魚串金網はりがねの類が久しく前から製造禁止になったことを知った。役人軍人らの銅像も取り払い隅田川の橋梁を昔のように木製にすれば物資の欠乏を補い、かつまた市街の醜観を減らせて一挙両得の策になろう。・・浅草に行く。公園内の八百屋には市中と異なり三つ葉胡瓜トマトなどが並べられていた。・・今年十月から増税のため木戸銭はまたまた高くなるようだ。現在でも公園興行場の景気はニ三年前に比べれば二割がた減少したというはなしである。(屑鉄禁輸は1940年10月)

8月21日、隣人の話では野菜果実はじめパン菓子その他日用品を買うのにみな行列するさわぎで物一つかうのに一二時間を費やすという。

8月25日、日用品が欠乏するにつれ人心の不安はなはだしく、今年の暮れあたりには銀行預金の引き出しにも制限を加えられるおそれがあるといって、市中の商家では紙幣を田舎へ持ち運ぶものが少なくないという。東京の家に隠し置くときは空襲の際に火災にかかるとのことである。わたしも万一のことを慮り2000円ばかりを銀行から引き出し西洋煙草の缶に入れ、台所の棚の上に載せて置くこととした。これは火災をおそれるためでなく、盗難を避けるためである。笑うべし笑うべし。

8月28日、ある人の話に麻布青山辺りのアパートには軍人の妾または軍人相手の売春婦が多く間借りしている。警察署でも遠慮して手入れをせず知らぬ顔をしているという。

8月30日、(今年の税額が倍近くなったので抗議していたところ税務署に呼ばれた。役人は有名税というべきものなので今年は我慢してほしいといった。以下、政府への罵言がつづく。)

 

9月1日、写真フィルム品切れ。煙草もこのニ三日品切れである。町の噂に近いうち民家で使用する鉄銅器を召し上げられるといって、鉄瓶釜のごときは今のうち中古道具屋に売るものが少なくないという。刻み煙草をのむ煙管も隠さねばならぬ世とはなった。

市中のタクシー車数が半分くらいになるという。

9月3日、日米開戦の噂がしきりである。新聞紙上の雑説ことに陸軍情報局とかの暴論など馬鹿々々しくて読むにたえない。

9月5日、玉の井広小路に缶詰問屋がある。市中にはない野菜の缶詰などがこの店にある。小豆黒豆の瓶詰もある。その向かい側の薬屋には蜂蜜がある。北海道から直接に取り寄せると店の者のはなしである。この日浅草で夕飯を食べ缶詰買いに行った。路傍に人だかりがして巡査の白服も見えたので何事かと立ち寄って見ると、喧嘩ではない。背広の安洋服を着た役人が数名屋台店の飲食物を取り調べている。役人の相貌は下賤でその目付きの陰険なこと浅草公園に出没する無頼漢の比ではない。このような人物が市中を徘徊して貧民の営業を妨害するのはまことに痛嘆すべきことである。

・・活動写真統制の禍にあい失業するものが数千人に上るだろうという。

9月6日、街頭の流言にさきごろ内閣総辞職があった原因は松岡外相がロシアに行った際に随行したものの中に間諜がいたためだという。

(松岡はドイツにつづいて対ソ参戦を主張し、主流の南進派に追放された。)

無題録:今日の我が国の状態は別に憂慮するには及ばない。ただ生活するにひどく不便になっただけである。今日わが国において革命(ファッショ化)が成功したのは定業なき暴漢と栄達の道のない不平軍人と、この二種の人間が羨望嫉視するあまり旧政党と財閥、すなわち明治大正の世の成功者を追い退けこれに代わって国家をわがものとしたのである。かつては家賃を踏み倒し飲酒空論に耽った暴漢と朋党あい寄って利権獲得で富を作った成金との争闘に、前者が勝ちを占めたのである。今日のところではまだ日が浅いので勝利者の欠点は顕著でないが遠からず志士軍人らそれら勝利者の陋劣なこと、旧政党の成金と少しも異ならないところに至るのは火を見るより明らかである。幕末西藩の志士がひとたび成功して明治の権臣となりたちまち堕落した前例もある。ここに喧嘩のそば杖を受けて迷惑するのは良民だけである。火事に類焼したのと同じく不時の災難でこれだけは如何ともする道はなく、ただ不運とあきらめるより外ない。手堅い商人はことごとく生計の道を失い威嚇を業とする不良民愛国の志士となって世に横行する。しかし暴論暴行もある程度にとどめておくことが必要である。牛飲馬食も行き過ぎればついに胃を破るだろう。隴を得て蜀を望むという古いことわざもある。志士軍人らも今日までの成功をもって意外の僥倖として反省し、この辺で慎むのがその身のためであろう。米国と砲火をまじえたとえサンフランシスコやパナマあたりを占領してみても長い歳月には何の得るところもないだろう。もしあるとすれば、それは日本が再び米国の文物に接近しその感化に浴する事だけだろう。すなわちデモクラシーの真の意義を理解する機会に遭遇する事であろう。薩長人の英米主義は真のデモクラシーを理解したものではない。

9月7日、街頭の集会広告にこのごろは新たに殉国精神なる文字を用いだした。愛国だの御奉公だの御国のためなどでは一向に効き目がないためだろうか。人民ことごとく殉死すれば残るものは老人と女だけとなるであろう。呵々。

9月8日、東武鉄道浅草駅および上野停車場の出入り口には大根胡瓜などをたずさえた男女が多く徘徊して、争ってタクシーに乗ろうとするのを見る。市中は野菜が払底したので思い思いに近在へ出かけるのであろう。日本の食事にお茶漬けに香の物を味わうことはむかしの夢となったのである。戦争の災害はどうにもならない。

9月10日、この日郵便物中に報知新聞社から書をもとめる手紙があった。これで三木武吉なるものが同社の長となったことを知った。野間清治の死後それを継いだものだろうか。三木は世人がすでに知るように神楽坂の待合松ヶ枝の亭主でかつて東京市役所の疑獄に連座したもの。すなわち刑余の罪人である。しかして公然新聞社の長となった。社会道徳がいかに廃頽したかを知るに足るであろう。しかしまた思うに三木の輩は要するに旧時代の政治ゴロにすぎない。これを今日の尊独愛国者の危険な策略に比すればなお許すべきものがある。今日世界人道のためにもっとも恐るべきものはナチス模倣志士のなすところである。その害の及ぼすところは日本国内のみに留まらないからである。

9月13日、広小路の松喜に上がる。女中のはなしに半年ばかりの間にお客様の種類が一変したという。

9月14日、タゴールの詩集を読む。

9月18日、水天宮門外に漬物屋が二軒並んである。いづれも品物はわるくない。人の噂に梅干しもよい物はやがて品切れとなるだろうから今のうち蓄えておくほうがよいというので、今夕土洲橋までいったので立ち寄って買って帰った。

9月23日、東京には生まれながらの都会人が年とともに少なくなって、都会生活すなわち町住まいの興趣は今やまったくその跡を断った。これは戦争のためだけでないだろう。戦争なく平和の世でも生活に興趣がなくなることは同じであろう。昭和七八年ころ戦争前の世のありさまを回顧すれば、東京の生活の荒廃は戦争の有無にかかわらないことは思うに言うをまたないだろう。

9月26日、夜浅草の煮豆屋に豆を買いに行ったが豆類は毎日何キロときまった制限があるため正午ころには売り切れになるとのことである。

9月28日、(生家の金富町あたりを散歩する)わたしは今年に入ってからようやく老いが迫り来るのをおぼえ歩行すればたちまち疲労を感じることはなはだしいので生まれた小石川の巷を逍遥するのもおそらくは今日この日をもって最後とするであろう。

9月30日、銀座で食事する。このごろ飲食店に入ってすぐに目につくものは四十五十くらいの老婆が三四人づれで仔細らしく話し合っていることである。戦争前には見られなかったことである。国民服とやらを着た中年の男の四五人寄って何やら届け書きらしい紙をひろげて飲み食いしつつ談合するのは珍しくない。電車の中だけでなく銀座丸の内あたりでは街の角で手をうごかして立談するものもいる。戦国の奇風ともいうべきだろうか。

 

 

1940年6月に英仏軍がダンケルクから追い落され、欧州はほぼドイツの支配下となっていた。ドイツは英国上陸の計画や軍備はほぼなかったものの、7月から対英戦争を始めた。海軍力空軍力で劣るドイツは物量で攻めたが、戦闘機は海峡を渡る力が不十分で護衛のない爆撃機は初期レーダーと優秀な戦闘機をもつ英空軍の餌食になった。地力のない英軍も徐々に疲弊したところ、ベルリン空爆が功を奏しドイツは報復感情から安全な夜間空爆に転換した。必然的に無差別爆撃となり、打つ手のない英軍は多数の民間戦死者を止められなかった。損害も多く手詰まりとなったドイツは勝利と主張して10月に対英戦を中止し、ひそかにソ連侵攻を計画した。反共と人種主義理論が根本イデオロギーにあり、南部の穀物石油資源をねらうドイツには当初から対ソ戦が射程にあった。

 

独ソ不可侵条約と日ソ中立条約で安全を確保しようとしたソ連は、誤った判断から攻撃に対する備えが出来ていなかった。満州をにらむ東部に大きな戦力を張り付けていたため、西部はその分防備が不十分でもあった。

6月22日からはじまったバルバロッサ作戦は、史上最大の陸戦となった。ソ連は最初期に航空戦力を奇襲で失い、ドイツ軍はたやすく領内に進攻できた。レニングラード、モスクワ、ウクライナの三方向での作戦により、ソ連のヨーロッパ部分とウクライナは9月初までにドイツの手に落ちた。

だがレニングラードはもちこたえ、ウクライナの掌握に戦力をそいだ結果として冬が近づくまでにモスクワを占領することができなかった。モスクワまで50kmのところで早い冬が訪れ、10月に進軍は止まった。ドイツには過大な自信はあっても戦略や戦争目標がなく、装備や兵站が不十分だった。機械も兵士も凍った。ソ連はもともと国力軍事力がドイツにまさり、ウラル山脈を越えてつぎつぎと新たな兵力が補充されてきた。