荷風マイナス・ゼロ (66)

何て読む?

 

昭和16年(1941)

 

1月1日、「風なく晴れてあたたかなり。炭もガスも乏しければ湯婆子を抱き寝床の中に一日をおくりぬ。昼は昨夜金兵衛の主人より貰いうけたる餅を焼き夕は麺麭と林檎とに飢えをしのぐ。思えば四畳半の女中部屋に自炊のくらしをなしてより早くも四年の歳月を過ごしたり。始めは物好きにてなせし事なれど去年の秋ごろより軍人政府の専横一層甚だしく世の中遂に一変せし今日になりてみれば、むさくるしくまた不便なる自炊の生活その折々の感慨に適応し今はなかなか改めがたきまで嬉しき心地のせらるる事多くなり行けり。時雨ふる夕、古下駄のゆるみし鼻緒切れはせぬかと気遣いながら崖道づたい谷町の横町に行き葱醤油など買うて帰る折りなど、何ともいえぬ思いのすることあり。哀愁の美感に酔うことあり。此の如き心の自由空想の自由のみはいかに暴虐なる政府の権力とても之を束縛すること能わず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり。」

1月2日、午後銀座から浅草に行く。家に在る時は炭の入用が多くなるからである。浅草の人出はものすごいばかりである。駒形辺りまた田原町辺りから人が波を打っていた。・・浅草にかぎらず今年は市中の人出が去年よりはなはだしいようである。東京の住民は正月のみならず何か事があれば全家が外に出て遊び歩くものとみえる。これは近年の風俗である。その原因は何であるか。地方人の移住するものが多いためとのみ断定することもまた当たってはいないようである。

1月3日、今年は年賀状もわづかに四五通、来訪の客ひとりもなし。時勢の変化で喜ぶべきはこの事だけである。

1月4日、オペラ館に行く。館主田代氏が来て本年三ケ日は非常に大入りで毎日三千人以上の観客があったと、毛皮襟付きの外套をきてすこぶる得意の様子であった。

1月6日、夜赤十字社東京支部女事務員で春を売るものが電話をかけてきてよい人をご紹介したいお差支えなければこれからすぐ連れていくという。一時間ばかりして年は二十二三、小づくりの女を連れてきた。・・人心の変化はわれら老人の到底うかがい知れぬところである。むかしは提重(さげじゅう)とか呼んで独身の武家または勤番の侍の家を歩きまわった私娼がいたとのことであるが、これら女事務員たちのするところはおのづから一致するのも可笑しい話。新体制時代のことであるからサンドイッチとでも呼ぶべきではないか。

1月10日、(遺言書を書く。以前書いたもの同様だが、遺産はフランス・アカデミーでなくどこにも寄付するなと。ドイツ占領下の現状に応じてだろう。)

1月13日、芝口の牛肉屋今朝で食事する。米不足だとして一人客は門口で断って入れない。また七時ころからは米飯のかわりにうどんを出す。わたしは去年の夏ごろから女中に浅草興行物の切符または祝儀をやっているので断られたことはなく、また必ず米飯をもってくる。

1月15日、銀座竹葉亭で食事する。米不足だといって芋をまぜた飯をどんぶりに盛って出す。寄宿舎の食堂のようである。

1月16日、(ドーデの戦争日記を読んで)フランス国民が北狄に侵略されることも今度の惨禍を思えば免れがたい宿命というべきか。

1月18日、銀座食堂で飯。この店の客は数年前までは都人に限られたが去年夏ごろから田舎者または場末に住む商人のように見える者だけとなった。男女の容貌風采は尾久三河島辺りの裏長屋などによく見られるものと変わりない。卑賎から成りあがったものばかり多く目に触れ、昔はさぞとゆかしく思われる人物を見ることはほとんどない。世の変わり目はいつの時代でもこのようなものであろう。

1月21日、象牙の三味線バチが去年から製造禁止となったので現在の物がなくなればその後は樫の木のバチ以外ひくものがなくなるという。またピアノの製造ならびに販売も禁止されているという。・・三越でメリヤス肌着を買おうとすると品不足で上下がそろわない。

1月25日、人の噂にこのごろ東京市中どの家でも米屋に米が少なく、一度に五升より多くは売らないため人数の多い家では毎日のように米屋に米買いに行くという。パンもまた朝のうち一二時間でどこも売り切れとなり、うどんも同じく手に入りにくいという。政府はこの窮状にもかかわらずドイツの手先となって米国と砲戦を交えようとする。笑うべくまた憂うべきである。

1月26日、午後町会の爺が会費を集めに来て言う。三月から白米も切符制となるはずで目下その準備中である。労働者は一日一人につき二合九勺普通の人は二合半。女は二合の割り当てになるだろうと。むかし捨扶持二合半と言ったことも思い合わされて哀れである。

1月27日、(浅草寺おみくじで吉と出て)この分ならば世の変革もさして憂えるに及ばないか。筆禍が身に及ぶことはないようである。

1月28日、街頭宣伝の立て札がこのごろは南進とか太平洋政策とかいう文字を用いだしている。支那は思うようにいかぬので今度はマレー人を征服しようとする心だろうか。彼方をあらし此方をかじり台所中あらし回る老鼠の悪戯にもにていないだろうか。

 

2月1日、(たびたび交渉のあった鹿沼の女が訪ねてくる。)過去を清算して家庭の人になりますからお暇乞いに来ましたというそばから、今月末にはまた出てくるかもしれませんと言い、いやだったら逃げるつもりですなど言いだし、なんのことやら訳がわからない。しかし東京で日陰の世渡りをしたことは止してしまえばその時かぎり誰にも知られず消えてしまうものと確信してさらに気づかう様子もない。その心の単純なることわれらにはむしろ不可思議である。世間の前科者などの心情もまたこのようなものだろうか。朴訥仁に近しと古人が言ったのは真であろう。

2月4日、(オペラ館)楽屋に行くと朝鮮の踊り子一座がいて日本の流行歌を歌う。声柄に一種の哀愁がある。朝鮮語で朝鮮の民謡を歌わせればさぞよいだろうと思ってそれを告げると、公開の場所で朝鮮語を用いまた民謡を歌うことは厳禁されていると答えそれほど憤慨する様子もない。わたしは言い難い悲痛の感に打たれずにいられなかった。かの国の王は東京に幽閉されてふたたびその国に帰る機会がなく、その国民は祖先伝来の言語歌謡を禁止される。悲しむべきかぎりではないか。わたしは日本人の海外発展に対して歓喜の情をもよおすことはできない。むしろ嫌悪と恐怖とを感じてやまない。わたしがかつて米国にいたとき米国人はキューバ島の民がその国の言語を使用しその民謡を歌うことを禁じなかったと聞いた。わたしは自由の国に永遠の勝利と光栄のあらんことを願うものである。

2月8日、飯米三月から切符制になるという。

2月13日、岩波文庫二月勘定左のごとし。

雪解 第三刷二回 金120円也

2月15日、十時ごろ虎ノ門から地下鉄に乗る。乗客の大半は銀座京橋辺りの事務所または商店に通勤するとおぼしき中年の紳士である。役人らしく見えるのもいる。いづれも傲慢陰険な面持ちで仔細らしく新聞の第一面を読んでいた。談話は統制に対する商策のみであるようだ。朝早くから浅草に遊びに出かけるようなものは一人もいないだろうと思えば自然と微笑を禁ずることができない。

2月18日、金城写真店で現像液その他を買おうとしたがみな品切れであった。

2月24日、浅草に行き寺島町を歩む。時あたかも五時になったとみえて色町組合の男がちりんちりんと鐘を鳴らして路地を歩き回っていた。昨年からこの里も五時前には客を引くことが禁止になったのである。馴染みの家に立ち寄ると飯炊きの老婆が茶をすすめながら、昔はどこへ行こうがお米とおてんと様はついて回ると言いましたが、今はそうも行かなくなりました。お米は西洋へ売るから足りなくなるという話(ドイツへとの噂)だが困ったものだと言った。怨嗟の声がこのような陋巷にまで聞かれるようになったのである。軍人執政の世もいよいよ末近くなった。

 

3月2日、熱海スターホテルの主人が北海道製純良牛酪を手に入れたといってそれを携え訪問する。熱海の浴客は去年の暮れよりまたまた増加し利益が少なくないという。

3月3日、鹿沼町の女が突然訪ねてくる。田舎での縁談は思わしくないので十日ほど前から東京に来た、ただいまは蠣殻町の待合××という家に住み込み、当分ここで稼ぐつもりだという。住み込みの女は三四人いて、いづれもいそがしく一日ならしで20円のかせぎがある。この待合の客筋には警視庁特高の主だった役人、また翼賛会の大立者(名は秘して言わず)がいるので手入れの心配は決してないと語った。新体制の腐敗が早くも帝都の裏面にまで瀰漫したのである。痛快なりというべし。

3月8日、夜、谷町でタオルを買おうとすると配給の切符がなければ売らないといった。

3月10日、(オペラ館楽屋で明日は主だった代表者が内閣書記官長某の宅へお礼のため伺候すると聞く。)

3月11日、(浅草で聞いた話:銀座のデパートで軍需工場の職工が台所道具を買い物していると女の職工が客で居合わせた。銀座通りで後をつけ、プロポーズすると女は驚きもせず承諾した。職工は一日80円かせぎ女は女給時代に貯金していた。その日から夫婦になって女はすぐ妊娠し、子供を産んで置いて逃げた。職工は浅草の漫才師に養育料をつけて引き取ってもらった。漫才師は金をねこばばして子供を興行師に売った。)

3月14日、三越の洋書を見る。売れ残りのフランス書籍も今は数えるばかりになった。

・・岩波書店三月勘定

珊瑚集 第三版の二 6000部 金120円也

3月17日、(玉の井の噂話:玉の井交番勤務の巡査が閨房のぞきが好きで、銘酒屋の女も見せてやることがあった。転任を延ばしていたが、念願かなって寺島署の私服刑事になり私娼窟とカフェーの臨検役になった。毎夜十二時過ぎにはのぞき見に来て、満足して帰るという。)

3月22日、日本詩人協会とか称するところから会費3円請求の郵便小為替用紙を封入して参加を迫ってきた。会員人名を見ると蒲原土井野口あたりの古いところから佐藤春夫西條八十などの若手もまじっている。趣意書の文中には肇国の精神だの国語の浄化だのという文字が多く散見された。そもそもこの会は詩人協会と称しながら和歌俳諧および漢詩朗詠などの作者に対しては交渉しなかったようで、ただ新体詩口語詩などの作者だけの集合を旨とするようだ。今日、彼らの詩と称するものは近代西洋韻文体の和訳もしくはその模倣ではないか。近代西洋の詩歌がなければ生まれ出なかったものでないか。その発生からして直接に肇国の精神とは関係ないもので、またかえって国語を濁化するのに力あったものではないか。・・佐藤春夫の詩が国語を浄化する力ありとは滑稽至極というべきである。これらのひとびとが自らおのれを詩人なりと思えるのはうぬぼれの絶頂というべし。木下杢太郎もまたこの会員中にその名を連ねている。彼らは今後十年たたずして日本の文章は横にかき左から読むようになるべき形勢が今すでに顕著なことを知らないのだろうか。

3月24日、(オランダ公使館前を散歩する。)建物の窓が開いているのもあって人が住むようだ。本国は北賊猅虎(ヒトラ)のために滅ぼされインド洋上の領土は和寇の襲うところとならんとしている。亡国の使臣は今なおこの家にかくれ住むのだろうか。哀れむべきである。

3月26日、春風が暖かくなるにしたがって銀座通りの人出が日に増して多くなっている。芝居活動小屋飲食店の繁昌も盛んだという。その原因はインフレ景気によるだけでなく、東京の人口が去年あたりから毎月二三万人づつ増加しているのに、米穀不足のため町に出て物を喰おうとするものが激増したためという。飯米は四月六日から男一人一日分二合半の割り当てで切符制を実施するという。

3月29日、町の噂に新内節師匠は去年御法度となりこの家の門口に師匠の看板をかけることを禁じられたという。歌沢節も芝派寅派の差別なくこれも御法度という。されば小唄も同様で、薗八節は言うまでもないことであろう。ある人は江戸俗曲が絶滅することを悲しんでもこれは如何ともできないことであろう。新政府の政令がなくても江戸時代風雅の声曲は今日の衆俗には喜ばれるものではない。早晩絶滅すべきものである。わたしの著述のようなものも要するに同じ運命をたどるものであろう。