荷風マイナス・ゼロ (41)

吉原 1932年(歴史写真会「歴史写真(昭和7年8月号)」)

 

昭和12年(1937)

 

6月2日、薄暮銀座で飯、北里(吉原)に遊び彦太楼に登る。かつて九段上の妓街で見知った女が娼妓になったのに逢う。その女の話を聞くと芸妓から娼妓に転じた女がまだニ三人この家にいるという。現代の遊郭のこともなにやら筆にしたい心地がする。

6月4日、灯ともしごろ銀座で夕飯を食べ北里に行く。揚屋町の萬字屋に登る。妓に案内されて屋上にのぼる。花壇がある。榻に腰かけて四方を望むと、暗い空の下に灯火点々として尽きない。北には遠く千住の灯が輝き、南には近く浅草公園の灯影が空なかばに映っている。隣楼の蓄音機が西洋音楽を奏でる。往年の吉原を想起させるのは、廊下を歩む上草履の音だけ。一時間ばかりで楼を出、京町から龍泉寺町電車通りに出る。酒場おでん屋のたぐいが廓外の町から連続して浅草公園に至っている。男の門付けが酒場に入り、都都逸流行歌を歌うのを見る。これは近年見るもので、往時にはなかった。

6月5日、黄昏尾張町の富士アイスで食事。たまたまW生が来るのに会う。墨東の遊びに随伴することを請う。車をひろって行く。広小路の商店では祭礼の提灯をさげている。白髭明神のまつりだという。路地を一周してから北廓に行き江戸一の彦太楼に登る。ラヂオの音がやかましいので、すぐ出て歩いて京二の河内屋に登る。震災後そのままの仮普請ではなはだ不潔だ。それでも娼妓にはすこぶる美貌なものがいる。この楼は亡友唖々子が往年通いつめたところ。・・そのころには内芸者もニ三人いて代町小店のよいところだったが。今は普通の小格子となったようだ。十二時すぎ楼を下り公園を一見して車で帰る。

6月6日、遊里のことを書いてみようと思いたち、夜十一時過ぎ家の戸締りをして門を出ると、空は晴れ浮雲の間に星を見る。江戸見坂を下り円タクを呼び止めて仲までいくらで行くかと聞く。仲とはどこですかと聞き返されて初めてこの言葉がすでに廃語となったと気づいた。大門口で車を降り五丁町を巡視し、門際の洋食屋に入りハムエッグスを注文した。悪臭があって口にしがたい。値段を聞くと二十銭だという。京町二丁目の河内屋に登り、昨夜の女を買う。その部屋に入ると八畳一室で次の間はない。調度箪笥のたぐいはみな素人家で見るものだ。小卓に白い布をしき表の障子にレースをかけているので、女給のアパート住まいに行って見た心地がする。夜具も市中の小待合にあるものと異ならない。積み夜具の年中行事も今は無きものなのだろう。新内の流し、按摩の笛、夜回りの金棒、小格子から聞こえる時の拍子木、これらのみわずかにむかしの名残を止めている。流しの音〆は銀座の裏通りなどで聞くよりもさすが土地だけに冴えているようだ。大引(二時)すぎても素見客(ぞめき)の往来は絶えない。河岸通りの店から妓夫の声が聞こえたが、三時を打ってからあたりは静かになり屋台店で女が語り合う声が耳立って聞こえるのに表の障子をあけて欄干にもたれれば、短夜はすでに明けはなたれ向こう側の不二屋の二階の灯も消えた。四時過ぎには早くも朝帰りの人の足音、円タクの響きが聞こえる。きぬぎぬという語も今はすたれたのだろう。六時になった時、楼丁が女の部屋々の障子の外から「おいらんお顔直しです」と言って過ぎて行く。八時から朝直しになるのだ。これだけは昔のようだ。

6月7日、朝八時前に楼を下る。娼妓が検梅所におもむく光景を見ようと思ったが、なお一時間待たねばならない。朝日が輝きわたって暑いので散歩して時間をつぶすのも具合が悪い。大門前からバスに乗り銀座富士アイスで朝飯を食し家に帰る。九時半だった。

・・夜半また北里に行き江戸一の彦太屋に登る。わたしの相娼は美子という。大森都新地および向島で芸妓だったこともあるという。年は二十一という。父母兄妹の写真を見せる。父は仕事師だが実兄は今行方不明だという。階下の部屋に寝たので昨夜のように楼外の景気を見ることはできなかった。終夜、二階で芸妓を揚げてさわぐ客がいた。美子はわたし以外に今夜は客はいないという。床番の源どんというものが写真撮影を楽しみとしているそうだ。床を敷き延べに来て語る。

6月8日、八時半楼を去り大音寺前まで歩き、銀座に出て富士アイスで朝飯を食し、丸の内三菱銀行に立ち寄り、家に帰る。

・・夜十二時半書斎台所の掃除をして裏門から出る。・・江戸見坂下から円タクをやとい曲輪に至ると、仲の町の茶屋はすでに戸を閉ざしたものもある。葉桜が繁ったかげに葭簀を張り菖蒲を植えている。これは昨夜は見なかった。江戸町に出向き彦太屋の店口に入ろうとすると楼丁はやくもわたしの顔を見覚え、声をそろえて御客さまと呼ぶ。三階の洋室で眠る。枕上げ時に新内の流しを聞くのは雨がようやく晴れたためだろう。窓はたちまちにして明るくなった。

6月9日、朝八時起きて見ると、細雨が濛々と煙のようだ。向かい側の家の二階の欄干に娼女二三人が立ち続く障子をうしろに雨の町を眺める姿。こなたから遠目に見渡せばさながら浮世絵の情趣があった。浅草松屋食堂で朝飯を食す。蜆汁玉子焼き香の物で価二十銭だった。ただし蜆も玉子も危険なので口にせず。銀座第百銀行に立ち寄り帰宅の後すぐに眠って正午に目覚める。

・・夜十二時出て芝口の金兵衛で茶漬け飯を食し、北里の河内屋に宿をとる。わたしの相娼は客が三人目だといって喜んでいた。

6月10日、楼婢が朝八時すぎ廊下から寝入った妓を呼び覚ます・・病院前の公園に至り池畔の榻に憩うことしばらくして娼妓が三々五々そろって検梅所に赴くのを見る。写真を数枚撮影した。歩いて雷門に行けば十一時になった。松喜食堂で食事して帰る。

・・今宵は江戸一の彦太に宿をとる。北里を描く小説の腹案がやや出来る。

6月11日、三階物干し場に出て娼妓の写真を撮影する。江戸町の通りを見下ろすと裏木戸近いあたりに女たちが打ちつどって猿回しを見ている。この光景もまたカメラにおさめた。八時過ぎに出て公園に少し休む。池のほとりに立つ世直し地蔵というのを見ると、震災前に土手の道哲(西方寺)の門内に在ったと台石に彫られてあった。娼妓が検梅に行く途中に来て拝むものが多い。九時銀座で朝飯を食して家に帰る。

・・夜十二時家を出て、今夜もまた彦太楼に宿る。今月六日の夜から毎夜北里の妓楼に宿するので、今は妓楼がわたしの寝室で、我が家はさながら図書館のように思われるのもおかしい。

6月12日、短夜が明け初めようとするころ、新内が窓の下に来て蘭蝶を語る。八時半大門から銀座に至り朝飯を食して偏奇館に帰る。

・・夜十一時家を出て江戸二の山木楼に登る。この店は洋人専門の噂があるが、登ってみれば別に変ったこともなく、普通の小格子だ。客種は成八幡彦太河内屋などよりぐっと落ちるようだ。大引近いころ出て彦太楼に登り夏の夜の明けるのを待った。

6月13日、昨夜は土曜日だったが彦太楼の娼妓はお茶を引くのが過半だった。わたしの相方登志子は昼遊びの客一人があっただけで、大引にわたしが来るまで客がなかったという。彦太はむかしから暴利屋の噂が高い店で、今にいたってもその風が失せない。抱えにもずいぶん無慈悲な様子で、今朝は女主人が昨夜の不景気を憤り、十時を合図に抱えの女をはじめ奉公人一同を呼び集め小言するという。全楼恐怖して、その結果女たちは朝帰りの客を追い出すようなありさまだ。いつもより半時間早く楼を去り歩いて雷門から車に乗る。

・・とかくする中に夜も十一時を過ぎたので手帳と写真機をたずさえ家を出る。・・千束町から京二の木戸口に来ればすでに大引に近い。日曜日の夜だが五丁町はどこも人影少なく、新内語りニ三人屋台店で休み小格子の妓夫たちと雑談するのを見る。・・彦太に宿をする。娼妓はしきりに主人夫婦の噂をする。

6月14日、銀座で朝飯を食し、家に帰って時計を見れば十一時だった。

・・夜十一時漫歩銀座に行き・・南千住行きの電車に乗る。満員の乗客はみな女給だった。吉野橋から歩いて廓に入り稲本に登る。

6月15日、早朝目覚めて裏窓をあけて見ると、空き地があって茄子胡瓜を植えていた。稲本屋の地所なのだろう。空き地の向こうは京町二丁目娼家の裏手だ。どれも仮普請の亜鉛葺きで瓦屋根は一軒も見ない。七時ころ楼を下ると空は曇って風が涼しいので、大門前からバスに乗り白髭橋に至った。早朝の川景色を見るためだ。

・・北里に夜をあかすこと昨夜でちょうど十夜となった。今宵も出かけたいと思ったが用事が重なっているので家に帰る。