荷風マイナス・ゼロ (42)

左上三ノ輪浄閑寺 南吉原 東山谷泪橋

 

昭和12年(1937)

 

6月16日、夜家を出て北里におもむこうとするが電車がすでにない。円タクに乗る。京町一丁目品川屋に登って宿する。品川屋はむかし揚屋町にあった茶屋受けの店だったが今は並みの小格子となった。現在の場所はむかし新萬という店があったところだろう。隣の稲弁も今は別の店となった。

6月17日、しばし寝る間もなく窓の障子は明るくなった。起き出て眺めると、窓の下は庭で新樹が生い茂った蔭に数寄屋まがいの一棟があるのは、この店の主人の住居だろうか。垣の外は裏河岸に通じる路地だ。むかしは京町の西裏は遊客ひやかしなどの行くことができないところだったが、今はこの裏にも河岸店が立ち続いている。暁の空はまだ薄暗く、屋根の間から見える河岸店の二階に灯火が残って、開け放った窓に女の姿が見え隠れするさまは何ともいえず哀れだ。八時過ぎ楼を出て、裏手の公園に至って見れば、池のほとりに黄色い制服を着た男四五十人がポンプを引き出し消防の練習をしている。廓の若い者だろう。病院行きの娼妓が三々五々歩みを止めてこれを見ている。また奇観である。・・家に帰れば十一時だった。

・・夜半一時北里に行く。雨が降っては止む。仲之町大村屋という蕎麦屋に入って桶うどんを食べおえれば早くも大引けだ。江戸町二丁目山木屋の店先を過ぎると、娼妓数名灯を消した店口に立って客を呼ぶ。先夜の相娼もその中にいて走り出て袖をとらえる。今宵はついにこの店に宿する。

6月18日、六時過ぎ大門を出て、山谷堀に沿い、歩いて今戸橋に至る。・・八時銀座富士アイスで飯して、偏奇館にかえりすぐに眠る。

午後朝日および読売新聞の記者が来て、文芸院の会員になることを承諾したかを問う。わたしは新聞を見ないので文芸院のなんたるかを知らない、したがって会員うんぬんはもともとあずかり知らない。

灯刻富士アイス地下室に行きいつもの諸子に逢う。・・二子とともに洲崎遊郭に行き藤春屋に登る。震災前甲子楼のあったところだ。大八幡の跡は数条の路地となり切店のようなものが立ち続いていた。暁一時過ぎ家に帰る。

6月21日、夜半の鐘が鳴るのを待って北廓に走り江戸二山木屋に登って眠る。

6月22日、朝七時楼を出て京町西河岸裏の路地をあちこち歩く。起稿の小説中主人公の住宅を定めておこうとするゆえだ。日本堤を三ノ輪のほうに歩んでいくと、大関横丁というバス停留場のそばに永久寺目黄不動の祠があるのを見る。香煙が脉々と昇っている。掛け茶屋の老婆に浄閑寺の場所を聞き、鉄道線路下の道路に出ると、大谷石の塀をめぐらした寺がまさにそれだった。門を見ると庇の下の雨風に洗われていないあたりに朱塗りの色が残っているので、三十余年むかしの記憶はたちまち呼び返された。(随筆日和下駄)土手を下り小さな流れに沿って歩いたむかしこの寺の門は赤く塗られていたのだ。いま門の右側にはこの寺が開く幼稚園がありセメントの建物だった。門内には新比翼塚がある。本堂みぎりの左方に角海老若紫の墓がある。・・そのあたりにただ一人遊んでいる十二三とも見える少女が並んでいる二個の墓石を教え、そのかたわらに立ち二人仲よく並んでいるのという。この少女は寺の娘だろう。おりおり墓参りする人が来るのを案内して、その来歴も知ったのだろう。十二三の年で情死ということを知っているのかどうか。あるいはただ仲のよい二人の男女の墓とだけ思っているのか。わたしはなんともいえず不可思議な心地がしてしばらく少女の顔を見守った。

・・バスに乗り、銀座富士アイスに朝飯を食し、十時過ぎ家に帰る。

・・六月以来毎夜吉原に泊まり、後朝のわかれも惜しまず、帰り道にこのあたりの町のさまを見歩くことをおこたらなかったが、今日の朝三十年ぶりに浄閑寺を訪ねた時ほど心嬉しいことはなかった。近隣のさまは変わったが寺の門と堂宇が震災に焼けなかったのはかさねがさね嬉しいかぎりだ。わたしが死ぬとき、後人がもしわたしの墓など建てようとするなら、この浄閑寺の塋域に娼妓の墓が乱れ倒れた間を選んで一片の石を建てよ。石の高さ五尺を超えてはならない。名は荷風散人墓の五字をもって足らすべし。

6月24日、暁三時に目が覚めた。手帳とカメラをたずさえて・・溜池で円タクに乗り北廓に行く。・・水道尻で車を下り創作執筆に必要な西河岸小格子の光景を撮影し、再び家にかえれば六時だった。

6月25日、W生から電話があった。尾張町富士アイスで会いいっしょに玉の井で遊ぶ。

6月27日、夜十時過ぎ家を出る。・・両国橋で電車を降り石原の河岸を歩いた。・・玉の井に至って知った家で休むこと一時間ばかり。歩いて白髭橋を渡り曲輪に入り、角町の蕎麦屋で鴨南蛮を食べた。茶屋の二階で芸妓をまねく客がところどころにいる。しばらくたって大引となり娼家は一斉に籬の電灯を消す。雨もまた降り来たったので江戸二の山木屋に登って暁を待つ。

6月28日、七時半曲輪を出てふたたび三ノ輪の浄閑寺墓地を見る。・・銀座行きの市営バスに乗ると満員で空席もない。江戸橋に着くとことごとく降りて残るものはニ三人だけ。尾張町富士アイスで飯を食べ家に帰る。

6月30日、夕方鳥居坂警察署を訪ね、我が家の裏隣りに魚類のいぶし焼を製造する工場が出来たため、臭気がひどいので何とかしてほしいむね述べた。

 

 

6月はじめに荷風は十連泊しているが、50代後半で毎夜性交したとは思えない。吉原はかつては恋愛ゲームの地だった。取材とともに往年の遊戯の雰囲気をしのんだのだろう。前の妻藤蔭静樹によれば、荷風の性的能力は「たいしたことなかった」らしい。また以前苦しんだ不眠症は、墨東行き吉原行きのあいだに治癒したようだ。ただ吉原舞台の小説は、結局完成しなかった。