荷風マイナス・ゼロ (40)

曲馬団の「トッテンカン」下村千秋 1928年)

下村には玉の井、亀戸の私娼窟をモデルにした天国の記録 (1930年)がある。

 

昭和12年(1937)

 

5月1日、「夜墨堤散歩。初めて言問の団子屋に憩う。セメント造にて一見共同便所の如し。長命寺さくら餅を売る店もまた同様なり。聞くところによれば市中公園内の家屋はセメントづくりにあらざれば許可せられず。やむことを得ず共同便所の如き家を建てしなりと云う。」(震災後もしくは戦時の防災計画だろう。)

5月10日、夜浅草より玉の井を歩く。東武停車場のほとりの空き地に、曲馬興行がかかってにぎやかだった。広小路には夜見世を見歩く人影がしきりで、あたり一帯いかにも夏の夜らしい空気になっていた。

5月12日、「銀座に飯して玉の井に至る。昭和病院裏の空き地に曲馬の見世物あり。路地を一めぐりして白髭橋に至り円タクに乗る。車は三ノ輪の広き道に出で龍泉寺町を過ぎて、上野山下より昭和道路を南に走り、やがて西に折れて新常盤橋をわたり、丸の内に入る。東京の市街は東西南北到るところ同じ道を行くが如し。四辻ごとにただ明るきネオンサインの広告を見るのみにて、何処に到るも目じるしになるべき建築物もなし。」

5月19日、夜W生とともに墨東に遊ぶ。

5月22日、出入りの古書商が亡くなった。「浮世絵の売買にて資産をつくりしが、これは大正二三年のころ余が浮世絵を研究せし時、余が家に品物を持ち来たりて余が説をきき自ら鑑定の道を覚えたるがためなりと言い居りしと云う。」

5月24日、「銀座に飯し浅草公園を歩みてかえる。汁粉屋梅園去二月より各品二三銭づつ値上げとなる。」

5月27日、吉原に行く。「揚屋町の成八幡楼に登る。二時間二円半。夜より明朝までは七円半なりと云う。余が妓楼に遊びしは洋行以前のむかしにて、帰朝後一二度亡友唖々子と共に旧遊の跡をたづねしことありしかど、遊里の光景すでに昔日の如くならざれば興味少なく、ほとんど今日に至るまで登楼せしことなかりしなり。」

5月28日、「電車にてその終点北千住のはづれに至る。再び吉原を過ぎ銀座に至りて夕飯を喫す。・・不二地下室に入りいつもの諸子と会談。」

5月は銀座の富士アイスで、連日のように知人たちと世間話をしていた。みな文学とは無縁の社会人だった。また濹東奇譚が好評だったため、吉原を題材に新作を書く計画をもった。