荷風マイナス・ゼロ (38)

荷風が愛用したローライフレックス・スタンダード

 

昭和12年(1937)

 

1月2日、浅草観音に詣でておみくじを引いた。境内には夜店がつらなり、活動館はどこも満員御礼の札をかかげていた。数年前のさびれかたとは似もつかぬ、好景気だった。銀座に行き喫茶店に入ると酔漢が多く、中に海軍士官と水兵が泥酔しているのですぐ立ち去った。

1月4日、「風俗おぼえがき 黒地の羽織に金銀の縫箔をなせしもの去年秋ごろより目につくなり。裾模様および帯地にも金銀の縫い流行す。いかにも物欲しげに見ゆるなり。平生たばね髪の娘正月になりて高島田に結いでこでこに花簪をさすもの多し。二三十年前ならば田舎娘の東京見物という姿なり。総じて女の風俗この両三年はでを通りすごして、悪どくでこでこになりたり。」

1月15日、「晴れて暖なれば写真機を提げ午後小塚原より京水バスに乗りて西新井橋に到る。中千住より橋南に至る道すでに開通せり。路傍に榎の古木ニ三株残りたり。橋畔の堤上には蜜柑、川魚、自転車用品、古着等売るものあり。塩鮭の頭と骨とを売るもあり。・・帰路白髭橋を渡り玉の井に少憩して後、夕餉を銀座に喫し終われば夜は早くも初更に近し。」

1月16日、昼食後、写真機をもって家を出た。浅草に着くと土曜日と藪入りを兼ねるためかおびただしい人出だった。堀切橋に行き堤防を歩んだ。微風嫋々として春の日のようだった。綾瀬川の水門に夕陽を眺め、銀座に来てさくらやで休んだ。

1月18日、午後芝宇田川町(新橋七丁目)のアパートに女給を訪ねた。「奇談あり。」(奇談奇事の語のあるときは、変則的性交をしたことが多い。)

1月21日、「燈刻W生(3P仲間)の電話にうながされ、雨中尾張町富士あいす店に往き、共に晩餐を喫して後玉の井に遊ぶ。奇事あり。」

1月23日、午後女給八重のアパートを訪ねた。

1月25日、「午後税金を納めんとて家を出で市中を散歩し、浅草雷門のちん屋に飯してかえる。」

1月26日、「夜W生夫婦来たる。」3Pかノゾキをしたのだろう。

1月31日、「大工勇之助来たりて本棚をつくる。金三十六円。」

 

2月1日、カメラを買う。310円。(ローライフレックス

2月3日、「霊南坂を登るに坂上の空き地より晩霞の間に富士の山影を望む。余麻布に卜居してより二十年いまだかつて富士を望みうることを知らざりき。・・夜八時W生その情婦をたずさえ来たる。奇事百出。筆にすること能わざるを惜しむ。この日より当分自炊をなす事とす。一昨日下女去りて後新しきものを雇い入るには新聞に募集の広告をなすなど煩累にたえざるをもってなり。W生帰りて後台所の女中部屋を掃除し、夜具敷きのべて臥す。畳の上に寝るも久しぶりなれば何ともなく旅に出でたるが心地なり。」(3Pで寝台を汚したのだろう。)

.2月18日、「春風嫋々たり。近巷の園梅雪の如し。午後写真機を提げ小石川白山に赴き、肴町蓮久寺に亡友啞啞子(井上)の墓を掃い、団子坂に出で鴎外先生の旧邸を撮影す。坂を下り谷中墓地に至り、五重塔のほとりに上田敏先生の墓を拝し、また鷲津家の墓に詣で、瑞輪寺に行きて枕山大沼先生の墓に香花を供う。」暖かくなって文人の墓参りがつづく。

2月19日、「谷町より溜池あたりの道路には小学校の生徒整列して麻布連隊満州よりの帰陣を歓迎せんとす。幸いにして電車は運転せり。」

2月20日、「玉の井を歩む。三部斎藤方にて偶然可憐の一少女に遇う。本所に生まれ北千住にて成長せしと云う。思うに職人の娘なるべし。去年夏頃まで銀座二丁目裏ハリウッドという喫茶店の給仕女なりしと云う。」

2月21日、南麻布光林寺のヒュースケンの墓参りをする。ハリス領事の秘書で1861年攘夷派に暗殺された。「近年刺客の横行するを見て、余はヒ氏の不幸を思い合わせ、先ごろよりその霊を弔いたしと思いいたるなり。」

2月22日、小石川小日向に戯作者滝亭鯉丈の墓参りをした。そのあと漱石の墓に行こうとしたが、ガイドブックにまちがいがあるようでわからなかった。

2月28日、「美代子来たる。ともに銀座に行き不二店に茶を喫す。美代子は五時ごろ富士見町のもみじという待合に客と逢引の約束あればそれをすませ八時ごろ再びわが家に来るべしとて電車に乗る。余はフィルムを購い家にかえり夕飯の支度をなすほどに美代子の情夫W生まず来たり、ついで美代子来る。写真撮影例の如し。」

 

3月3日、「燈刻W生と銀座不二氷菓店に会す。」現像した写真を渡したのだろう。W生とは気が通じたか、何度も会合している。

3月7日、「午後W生夫妻来訪。」

3月13日、「網代町藝者屋町の表通りに自動車五六台据え並べて市会議員選挙の宣伝をなすものあり。一台の車には蓄音機を据え浪花節にて選挙に棄権するなという事を語る。人をして抱腹絶倒せしむ。燈刻W生来訪。」

3月15日、「亀戸を歩む。選挙運動員等売笑窟に接する小道に自動車を乗り入れ、蓄音機を鳴らし立る事一昨日麻布十番あたりにて見たる時に異ならず。」

3月16日、腹巻にシラミがわいた。(下女を雇わなくなって、洗濯が行き届かないのだろう。)

3月18日、「大久保の母上重病の由」

3月20日、「下女を雇わず独居自炊の日をたのしむこと早くも一か月半になりぬ。かつて築地本願寺のほとりに住みし時しばらく自炊せしことありしが、その折は寂しく果敢なき思いに堪えやらぬこともありしが、今は下女の家に在らざること、家内の静寂をみださず、かつはまた台所を心のままに使い得れば、おのずから口にあいたる物をつくり得るなり。銀座の安料理食うよりは自らつくりしものは中毒のおそれもなく、珈琲の一碗もその薫おのずから長閑なり。」

3月24日、「最寄りの郵便局に所得税を納む。金六十二円余也。毎年暮春のころに至ればわが庭には鶯来たりて終日声なめらかに囀りつづくるなり。然るに今年は春来いまだ一たびもこれをきかず。麻布の里も塵多くなりて鶯も来たらずなりしとおぼし。燕も今は来たらず。雀さえこのごろは稀に一二羽飛ぶを見るのみなり。東京も紐育市俄古の如く公園に往きても鳥の声をきくこと能わざる熱閙の巷となりしなるべし。」

3月26日、「近頃ラヂオの放送に古川緑波という道化役者水戸黄門のことを演ぜしところ、水戸の壮士等これを聞き黄門を辱めたるものなりとて凶器をふところにして上京し、役者緑波を襲い、また放送局に至り何やら不穏の談判をなせしと云う。」

3月27日、「電車の行くにまかせて行くほどに北千住放水路の橋袂に至れり。堤上には両側に露店並び、橋詰の商店より蓄音機の流行唄さかんに聞こゆ。場末の町の光景また一種の情味あり。市中電車終点各所の写生文をつくりて見んと、あたりを徘徊す。」