荷風マイナス・ゼロ (56)

百人斬り競争とその処刑の記事

 

昭和14年(1939)

 

1月1日、「(玉の井に行く)広小路に出るに東側に並びたる飲食店の中にて唯一軒店をあけたる家あり。常に円タク運転手を顧客とする店なるがごとし。定食朝20銭。夜30銭という張り紙を出したり。

・・夜半十二時ごろ永井智子より電話あり。離婚のことにつき相談したしと云う。」

1月2日、「(永井智子の夫は)生活費はことごとく妻智子に支払わすのみか、毎月70円の現金をも妻の手より奪い取り、これをことごとく酒代となせり。智子はオペラ館より毎月200円を得、・・オペラ館には前借150-60円あり。」

1月4日、「平沼男爵首相となる。」

(第一次近衛内閣は戦争拡大と挙国一致ファッショ体制構築を目指したが、新党を設立しようとして行きづまった。超国粋主義者として2.26以前は遠ざけられていた平沼騏一郎が、跡を継いだ。)

1月7日、「(来た手紙の一節)東京市長小橋なにがしといえるもの・・大都会芸術なるものの提唱を起こし・・その傘下に参ずるものは例によって菊池吉屋佐藤西條などいづれも大の田舎漢にて噴飯の至り。」

1月15日、「新橋渋谷間地下鉄道開通。」(銀座線全通)

1月20日、「税金およそ270円を京橋郵便局に納め、日吉町の床屋に立ち寄り吾妻橋丸三屋に至る。・・この夜公園の雑衆はなはだしきは二十日正月のためならんと云う。兎に角に戦争の事を口にするものなきは悦ぶべきなり。」

1月23日、(小説女中の話を読んだ読者が)「なにとぞ女中に使いくれよと云う手紙二度ほど寄せ越しぬ。小説を芸術として鑑賞すること能わざる人の心ほど解しがたきはなし。」

1月28日、「オペラ館出演中の芸人中韓某とよべる朝鮮人あり。一座の女舞踊者春野芳子という年上の女とよき仲になり大森の貸間を引き払い、女の住める浅草柴崎町のアパートに移り同じ部屋に暮らしいたりしが、警吏の知るところとなり十日間劇場出演を禁じられたりと云う。朝鮮人は警察署の許可を得ざれば随意にその居所を変更すること能わざるものなりと云う。この話を聞きても日本人にて公憤を催すものはほとんど無きがごとし。」

1月29日、「旧オペラ館芸人眞弓明子上海ダンスホールにあり。三月ころ帰京したしとて手紙を寄す。」

 

2月9日、「新聞広告にて家政婦志願のものを尋ね見んとてその番地をたよりにして白金三光町雷神山跡に行く。・・間借りをなせるその女に逢いて見るに年は27-8、信州の生の由。女中よりも妾になりたき様子なれば改めて返事すべしと言いて立ち去りぬ。」

(日記の●マークは性交にかんする印と考えられている。前年ことに葛飾情話上演前後は、●マークが減少していた。この年に入って印は散発的に増え、いよいよ女中兼妾を置く気になったらしい。この女性との話は立ち消えになっている。)

2月11日、「紀元節にて世間騒がしければ終日門を出でず。」

2月16日、「平井君もと浅草芸人(オペラ館)宮城輝子と云うものを伴い来る。仙台生去年中名古屋へ出稼ぎす。」

2月19日、「オペラ館演劇花と戦争と題する一幕憲兵隊より臨検に来たり上場禁止せられし由。昨夜起こりし事なり。浅草の踊り子戦地へ慰問に赴き昔馴染みの男の出征して戦地に在るものに邂逅するというような筋なりと云う。」

2月21日、「昨日オペラ館作者小川有吉の二人憲兵屯所に召喚せられ終日尋問せられしと云う。家宅捜索にもあいたりと云う。」

2月24日、「初更のころ浅草に往かんとて門を出で麻布仲ノ町小学校前を歩む時、職工風の追いはぎに遇う。走りて電車通りに出でわずかに難を免る。乱世には是非もなきことなり。」

 

3月6日、「ミシュレーの羅馬史を読了して仏蘭西史に進む。」

3月7日、「銀座にて夕飯を喫することを好まざれば今宵も遠路をいとわず浅草に往く。・・公園花やしき近きうちに開園の由。・・このごろ夜半一時ころに至れば辻自動車ほとんどなく、たまたま有るも遠路を行くことを欲せず。市内の交通まったく途絶するなり。これがためか吉原をはじめ遊廓待合には泊り客多しと云う。世の有様一帯に明治四十年ころのむかしに立ち戻りしがごとし。」

3月10日、「近年文壇に賞金の噂多し。菊池寛賞と称するもの金1000円このたび徳田秋声これを受納せしと云う。・・余は死後に至りても文壇とは何らの関係をも保たざらんことを欲す。」

3月12日、「このたび花やしきを買い取りたるは須田町食堂の主人なり。震災直後はじめて須田町に飲食店を開き今日まで15年間にて巨万の富を作りたり。目下使用人4-5千人あり花やしきだけにて400人を使用すと云う。」

3月14日、「この日富山房より金120円受納(改訂下谷叢話発刊)」

3月16日、「夜オペラ館に至り見るに刑事2-3人あり、俳優音楽師20名あまり賭博犯にて終演の時刻を待ちまさに警視庁に引致せらるるところ。作者小川安藤の二人もまた引かれ行くと云う。踊り子らは今夜稽古なしとて大よろこびなり。」

3月31日、「歌劇題未定筋書き・・千束夜話とでも題すべきか。(NTRばなし)」

 

4月1日、「人形町の里美に至り、その主婦と相談し道子とよぶ私娼上がりの女を外妾とすべきことを約す。十一時過ぎその女来たれば伴いて家にかえる。」

4月2日、「正午に起き道子を伴いて里美に往く。浅草公園近傍のアパートに住まわせ置かんと思いて心当たりへ電話にて問い合わせしが空室なし。・・薄暮に至り新大橋向の河岸近き横町に貸し二階を見つけたりとの知らせを得て、様子はわからねど借り受けの約定をなす。」

4月7日、「雨深更に至るもやまず。桜花の好時節北風吹きすさみてのち長雨数日にわたりてなお晴るる模様もなきは、虐殺せられし支那人が怨霊の祟りならんと言うもの多し。」(百人斬り競争のような記事が東京日日、朝日などの紙面を飾っていた。)

4月10日、「(外妾道子の新しい部屋をさがす。)八丁堀の大通りにころあいの一室を見出し得たり。・・間代17円。」

4月11日、「余老年に達し自炊にもやや疲労を覚ゆる日の多くなり行きたれば、道子の身元判明するを待ちわが方へ引き取らんと思い居たりしかど、その性向あまりに淫蕩なるのみならず大坂者にて気風はなはだ気に入らぬこと多きをもって、体よくこの日かぎり関係を断つこととなせり。」(しかし関係はつづく。)

4月16日、「辻々に自家用自動車を政府に献上せよとのビラを出したり。浅草公園に入るに日曜日の人出多しといえど銀座辺のごとく険悪の気味なし。」

4月27日、「終日風雨雷鳴。日暮に至って晴る。九段招魂社祭礼中この雷鳴果たして何のゆえなるや。怪しむべし。」